聖霊と創造


「神に受け入れられる信仰67」12月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6本日の「神に受け入れられる信仰」とは、1952年度ノーベル平和賞に輝いたアルベルト・シュバイツァー博士の信仰です

彼は体の病気も霊と心も直す医者として、魂の宣教師としてアフリカのコンゴに赴任しました。シュバイツァーは、ピアノやパイプオルガンをも演奏する音楽家としても優れた才能の持ち主でした。これらのすべてを神とアフリカの人々の心の救いと病気の癒しのために生涯をささげたのです。

シュバイツァーは、ノーベル賞の賞金もアフリカの人々のためにささげたのです。イエスは、この世を治めるために再びこの世に来られます。これをキリストの御再臨と言います。この時、羊飼いが羊と山羊を分けるように一人ひとりを審判されます。それは、祝福された人々に、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者の一人にしたのはわたし(キリスト)にしたのです。」呪われた者に、「これらの小さい者たちにしなかったのは、私にしなかったのである。」マタイ24:31-46参照

シュバイツァーは、天において、ノーベル賞にまさる、神からの賞与を受け取っているに違いありません。私たちも、彼のように永遠の御国の冠をいただきたいものです。

 

神に受け入れられる信仰66」12月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、前回に引き続き、三重苦の奇跡の人と言われた、ヘレンケラーの信仰です。ヘレンケラーは神の選びの人です。

人生は出会いによって決まるという格言がありますが、いろいろな出会いに触れてみたいと思います。

ヘレンケラーの第一の出会いは、両親との出会いです。人生で最初に出会う出会いは、両親との出会いです。彼女の両親は、真の神を信じた敬虔なクリスチャンでした。、娘のために絶えず祈り、愛情をもって育てました。親との係わりがたくさんの面で子供に影響を及ぼします。

第二の出会いは、愛と信仰の人、サリバン先生との出会いです。彼女は、神がヘレンの人生に神が遣わしたみ使いのようです。サリバン先生の持っていた、神と人に対する信仰と愛がヘレンに受け継がれたのです。

第三に、神との出会いです。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去った。見よ。すべてが新しくなったのである。」Ⅱコリント5:17

ヘレンは、真の神即ち、イエス・キリストにお出会いしたのです。ヘレンケラーは、霊の目と耳と口の言葉が開かれ、神を見出したのです。どんな困難や問題よりも、神は大きく偉大なお方です。

ヘレンケラーの信じた信仰は、「神には不可能はない。」という奇跡を信じた信仰です。

あなたの上に、神の恵みと祝福が豊かに注がれますようお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰65」12月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、三重苦を越えた奇跡の人ヘレンケラーを、信仰と救いに導いたアン・マンスフィールド・サリバンの信仰です。

 

ヘレンケラーは、一才の時、「胃と脳髄の急性充血」という病で、目が見えず、耳が聞こえず、語ることができないという三重苦の人生になりました。このヘレン・ケラーが、七才の時運命の人、サリバン先生に出会うのです。彼女は敬虔なクリスチャンで、ヘレンの教育の先生として、あらゆる困難を乗り越えて、ヘレン・ケラーという偉大な信仰の人を産みだし、育て上げていったのです。

多くの書物が出版され、サリバン先生とヘレンケラーについては記されています。

三重苦と言う困難を乗り越え、世界中の人々に希望を与えることができたのはなぜでしょうか。ひと言葉で言うなら、神のなされた奇跡の御業です。

そのために用いられたのがサリバン先生です。多くの働きと祈りの結果ですが、私は、二つのことを取り上げます。

第一は、神への絶対的な不動の信仰です。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからです。」マルコ10:27 このできるというのは最善をなさるということです。三重苦の病い自体が、いやされたのではありませんが、神はいつも信じる者に最善をなさるのです

第二にはヘレンへのサリバン先生の愛です。この愛も人間的な愛ではなく、神から受けた愛で愛し続けたのです。詳しいことは、ヘレンケラーの伝記などをお読みください。

神は、いつの時代にも人を用いられます。あなたも、サリバン先生や、ヘレンケラーのように人々に信仰と愛と希望を与える人になってください。


「神に受け入れられる信仰64」12月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」は、アウグスチヌス(オーガスチン)の母モニカの信仰を取り上げたいと思います。

アウグスチヌスは、ローマ帝国時代の神学者で、カトリックでは聖アウグスチヌスとよばれ、正統的な聖書信仰者で、現代にまで、大きな信仰の遺産を残しています。

しかし、彼は青年期にはマニ教という異端信仰におぼれ、道徳的、倫理的に生活は乱れ退廃的な生活をしていました。このアウグスチヌスを救いに導いたのが、母モニカの祈りでした

では、彼女のささげた祈りの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。

「いつまでも、存続するものは、信仰と、希望と愛、この三つです。」Ⅰコリント13:13

第一に神に対する絶対的信頼によるあきらめない信仰です。信仰には、忍耐が必要です。モニカは、息子の現実の見える状態がどのようでも、神と神の約束を信じました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31

 

第二に、神にあって持つ希望です。ある時、彼女は息子の夢を見ました。それは、マニ教のアウグスチヌスが、自分のところに帰ってくる夢でした。現実は、すぐに実現したのではありません。しかし、祈りの中で、キリストにある息子の姿を描き続け、希望(ビジョン)が現実になったのです

 

第三に、息子に対する母の愛それは神から生まれたアガペ(神の愛)でした。

私の大好きな、み言葉があります。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が注がれているからです。」ローマ5:3-5

母モニカの信仰に、ならいましょう。

 


「神に受け入れられる信仰63」12月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、理想の信徒夫妻アクラとプリスカの持った信仰です。

使徒パウロはローマ人への手紙の終わりに、次のように述べています。

キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。このひとたちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」ローマ16:3-4 

そして家の教会として家庭も開放していたこともわかります。ローマ16:5

パウロは、信徒であった彼らを同労者と呼んでいます。事実彼らは、迫害で追われていたパウロをかくまい、天幕づくりの仕事をしていたアクラとプリスカはパウロを自分の家に迎え、仕事を与え、共に天幕づくりの働きをしたことが記されています。使徒18:2-3

また、彼らは、アポロが霊に燃えて、エペソでイエスをのことを伝え、聖書を解き明かしたが、ヨハネのバプテスマ知らなかったので、福音を正確に伝えて、アポロの働きを助けました。

そして、ギリシャのアカヤにわたり宣教したいアポロに、アカヤ地方の信者に彼を歓迎するよう手紙を書きました。このことによりアポロは力強く働くことができました。使徒18:24-28参照

 

神の国の働きは、多くのキリストの体の部分が、与えられた務めを忠実に果たすことにより実を結びます。アクラとプリスカは理想の働き人です。御国において、大きな報いを受け取ることでしょう。

神の御国建設に携われる人は、なんと幸いなことでしょう。


「神に受け入れられる信仰62」12月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、昨日に引き続きピリピ教会の初穂であり土台となった、獄やの看守が持った信仰です。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:30

 パウロとシラスの福音メッセージを心から受け入れた看守家族は、皆救われました。「全家族そろって神を信じたことを喜んだ。」使徒16:34と記されています。

家族ぐるみの救いは、神の御心です。使徒の働きには、家族、親族、地域ぐるみの救いが数多く記されています。

パウロとシラスの生きた信仰に触れたピリピ教会も同じ信仰のDNAを持ち、喜びに満ち溢れたのです。生きた信仰は、霊の命を生み出します。

ピリピ教会のような信仰と喜びに満ち溢れた教会が、日本全土に満ち溢れることを祈らずにはおれません。

そして、私も、私の家族も、私たちの教会も、信仰と喜びのDNA満ち溢れたものにならせてくださいと切に祈り求めます。

 


「神に受け入れられる信仰61」12月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ピリピ教会の初穂として救われたルデヤの信仰です。ピリピ教会は、マケドニヤ地方最大の町にあった教会で喜びと賛美に満ち溢れた教会でした。パウロは、聖書の中で繰り返しマケドニヤ教会の信仰を称賛し、自らの手紙で紹介しています。

 

「さて、兄弟たち私たちはマケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みをあなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ち溢れた喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に願ったのです。」Ⅱコリント8:1-5

 

このようなすばらしい、ピリピ教会の初穂であり土台となったのが、ルデヤとその家族です。彼女は、神を敬い、祈り深い信仰の持ち主でした。また社会的にも当時、高貴な人々が着用していた紫布の商人でした。しかし、パウロの伝道に心を開き、イエスを信じて家族ぐるみで、バプテスマ(洗礼)を受け忠実な信仰者になりました。(使徒の働き16:13-15参照)

聖書に「初穂が聖ければ、そのかたまりも聖い。」ローマ11:16

とあるようにルデヤの持った信仰がピリピ教会の信仰になり、更にマケドニヤ全体の教会に信仰が受け継がれたのです。

祈り深く、忠実で敬虔な信仰、そして家族ぐるみの信仰です。このような信仰が私たちの教会に、日本の教会に、世界に受け継がれることを祈らずにはおれません。「主よ。信じます。アーメン」


「神に受け入れられる信仰60」11月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、パウロの弟子であり、霊の子どもであるテモテの純粋な仰です。テモテの名前の意味は「神を礼拝する」です。

使徒パウロは「信仰による真実のわが子テモテへ。」 Ⅰテモテへの手紙1:2で表現しています。

パウロは、更にⅠテモテ1:5で「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」と述べています。

彼は、幼い時から、祖母と母の敬虔な信仰の家庭で育ちました。

彼の信仰の土台は聖書のみ言葉でした。「けれども、あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは・・・幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者になるためです。」 Ⅱテモテ3:14-17

そしてテモテのもう一つの土台は聖霊信仰です。

「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」 Ⅱテモテ1:6-7

「神に受け入れられる信仰」とは、み言葉と聖霊の信仰です。テモテのような純粋な信仰者となりましょう。


「神に受け入れられる信仰59」11月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、慰めの子と呼ばれたバルナバの信仰です。

バルナバとはどのような人物であったか、使徒の働きを書いた、ルカは次のように記しています。

「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が、主に導かれた。」使徒11:24 

ここで立派な人と訳されている言葉は、アガソス(善人)で、正しい義人だけでなく、愛とあわれみを兼ね備えた人の意味です。初代教会が、初期のころ愛による共有生活をしていた時には、自分の畑を売り、その代金をすべて主に献げました。使徒4:36-37

また、多くの人たちが、恐れていた迫害者サウロ(パウロ)が、悔い改めて改心した時、人を恐れずサウロの弁護者になり、エルサレム教会に紹介し、霊的父親としてサウロの信仰を導きました。

 

宣教活動においては、パウロとともに、異邦人に福音を伝え、後には弟子のパウロに仕える無私無欲の人でした。若いマルコが伝道旅行で逃げかえった時には、パウロと対立してまでも、マルコを温かく迎え、偉大な働き人に育て上げました。

バルナバの信仰は、人を励まし、育て、慰め癒し、立派な信仰者にする働きでした。また、愛で互いを結び付け、疑いを信頼に、憎しみを愛に、分裂を一致に導く聖霊と信仰に満ち溢れた人物です

 

バルナバのような信仰者と働きが、日本に、世界に現れるのを切に祈ります。

また、自らもそのような器になりたく願います。 主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰59」11月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、御霊の伝道者ピリポの信仰です。彼は、十二使徒のピリポではなく、ステパノと同じく、初代教会において最初に選ばれた七人の執事の一人です。使徒6:3-6

彼は、「御霊と知恵に満たされ、信仰と聖霊に満たされた、評判の良い人物でした。」

迫害により、全地に散らされた人たちは、み言葉を宣べ伝えながら、各地を巡り歩きました。ピリポもその一人でサマリヤの町で福音を伝え、彼の伝道により、多くの人が救われバプテスマ(洗礼)を受けました。

 

その後、み使いが彼に現れ、「ガザ(荒れ果てた地域)に行きなさい。」と語られると、すぐに従いました。すると、そこにエルサレムで礼拝し、国に帰る途中のエチオピアの宦官が馬車に乗りイザヤ書を読んでいました。ピリポは、御霊に導かれ、近づいて行き、この失われていたエチオピア人を救いに導いたのです。(使徒8章参照)一説によると、この時代より、エチオピアはアフリカ唯一のキリスト教国となったと言われています。

では、ピリポの持っていた信仰とはどのような信仰でしょうか。

第一に聖霊に満たされ、聖霊に導かれ、聖霊によって働いた、聖霊充満の人でした。

第二に、失われた人々を愛し、福音の働きに、すべてをささげた愛の人でした。

第三に、自分の利益ではなく、神を主とし、人々の幸いを願う、無私無欲の人でした。

彼は後に、四人の娘が与えられ、全員が神の言葉を預言する信仰の家族となりました。家庭も働きも主の祝福を受けました。

ピリポやステパノのような聖霊と信仰の器の現われを祈らずにはおれません。アーメン。

 


「神に受け入れられる信仰57」11月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、殉教者ステパノです。ステパノの名前の意味は「冠」です。王様のかぶる王冠、勝利者に与えられる栄冠など素晴らしい名前です

 

ステパノは、初代教会において、十二使徒の働きを支える、七人の執事として任命されました。(使徒の働き六章 参照)そこには、「御霊と知恵とに満ちた評判の良い人七人を選びなさい。」使徒6:3 と記されています。また、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ・・・」と七人の執事の中で最初に名前が、あげられています。「彼らの働きを通して、神の言葉はますます広まり、弟子の数は、増え、多くの人々が信仰にはいりました。」使徒6:7

しかし、ユダヤ教の人たちなどの、妬みと反対にあい、ステパノは初代教会の最初の殉教者となりました。詳しくは、使徒の働き七章をお読みください。

ステパノは、多くの人々にキリストの救いと愛を大胆に語りました。その結果、石打ちと言う恐ろしい方法で殺されます。”そのような中でも、彼の顔は天使のように輝き、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、叫びました

「見なさい。天がけて、人の子が(イエス)神の右におられます。」石打ちを受けながら「主イエスよ。私の霊をお受けください。」人々に対しては、「主よ。この罪を彼らに追わせないでください。」こう言って眠りについた。”使徒7:54-60

 

イエス・キリストが十字架上で語られたのと同じ言葉で殉教したのです。これを見ていたサウロ(パウロ)は、後に救われ大使徒として用いられることになります。その先がけはステパノの信仰です。

ステパノの持った信仰をまとめてみます。

①信仰と聖霊に満ちた人 ②知恵と御霊に満ちた人 ③死をも恐れない大胆な人 ④神と人々を愛する愛の人 ⑤人々から愛される評判の良い人 

なんと素晴らしい信仰でしょうか。これらはすべて、聖霊に満たされて受けていたことです。ステパノのように、聖霊に満たされ、神と人々を愛し仕える者となりましょう。

最後に祝祷を捧げます。

「イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなたの上に限りなく注がれますように。アーメン。」


「神に受け入れられる信仰56」11月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:26

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、使徒の働き3章における美しの門でのペテロとヨハネの信仰です。 ”午後3時の祈りの時、宮に入ろうとしたペテロとヨハネに、生まれつき歩くことのできない男が、施しを求めました。何かもらえると思ったのでしょう。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるもの上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。”使徒3:1-8

 

この癒しの御業を目の当たりに見た人々は、驚きペテロとヨハネのもとにやってきました。

ペテロは「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが、自分の力や信仰深さで彼を歩かせたかのように私たちを見つめるのですか。・・・あなたがたは、十字架でいのちの君を殺しました。しかし、神はイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、御名を信じる信仰のゆえにこの人を強くしたのです。」使徒3:12-16

ペテロとヨハネの持った信仰とは、イエス・キリストの御名に対する信仰です。名前の中には、その人のすべてが含まれています。性質、能力、働き、おかれた立場やその人自身のすべてです。主イエス・キリストの御名には力があります。あなたの必要としているすべてが存在します。人間には、罪を赦し、永遠の命と言う救いを与えることはできません。

永遠の救いも、この世のすべての必要も、いやしや、問題の解決も、イエス・キリストの御名の中にあるのです。ぜひイエス・キリストを信じて救われ、「イエス・キリストの御名」の信仰で人生の勝利者になってください。あなたのうえに、主の祝福をお祈りしています。

 


「神に受け入れられる信仰55」11月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、最初の聖霊のバプテスマを受けた120名の信仰です。

十字架についたイエスは、死んで葬られ、預言のとおり三日目に復活され、昇天され、最後に言われました。「あなたがたは、わたしの証人です。さあ、わたしは、私の父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカ24:48-49 

この約束とは聖霊のバプテスマを受けることです。

更にイエスは言われました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人になります。」使徒1:8

多くの人々がこの約束を聞きましたが、最後に120名が残り、約束の力、聖霊体験にあずかったのです。ローマやユダヤの権力を恐れていた人々が、聖霊により、180度変えられて、力強いキリストの証人となったのです。

120名の信仰とはどのようなものでしょうか。キリストの約束の言葉を堅く信じる御言葉信仰です。聖書には多くの神の約束の言葉があります。彼らは十日間、約束を信じて待ち、祈り続けたのです。次に彼らの信仰は忍耐の信仰です。「神のみこころを行なって約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」ヘブル10:36 

あなたに対する、多くの神の約束の言葉があります。固くみ言葉を握り、約束が成就するまで、忍耐を働かせ、神からの祝福を受け取ってください。そして、キリストの生きた証人となってください。

主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰54」11月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、コルネリオの信仰です。

彼はローマ軍の百人隊長でした。

敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていました。ある日の午後三時の祈りの中でコルネリオは、み使いの声を聞きました。

「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」詳細は、使徒10:17-48にしるされていますので聖書をお読みください。

信仰の結果として、コルネリオと、家族、親族、友人たち一同が、聖霊と水のバプテスマに預かり、救いと聖霊の満たしを受けました。

では、なぜ異邦人のコルネリオが神に受け入れられたのでしょうか。彼はローマ人でありながら、真の神を信じる、祈りの人でした。

「神は、かたより見ることをなさらず、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行うなら、受け入れてくださるのです。」

彼の神への信仰と祈りを神は喜ばれたのです。さらに、人々への愛の施しを喜ばれました。コルネリオはローマが占領していた、ユダヤの人々に、権力ではなく、愛をもって仕えたのです。最後にイエスの言われた二つの大切な戒めを記します。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」マタイ22:37-40

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 主の祝福をお祈りしています。

 


「神に受け入れられる信仰53」11月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」、「油を用意した賢い娘の信仰」です。イエスは神の国、天の御国の真理をたとえを用いてわかりやすく解き明かされました。

 

このたとえは、キリストの御再臨(世の終わりにキリストがすべてを統治するために、再びおいでになること。)に対する備えのお話です。花婿なるキリストが、御再臨するとき五人の賢い娘は油を備えて待ち望んでいました。一方、愚かな五人の娘は油を用意していませんでした。詳しいことは、マタイ福音書25:1~13に書かれています。

賢い娘は、キリストをお迎えするのに、何が必要かを悟り、それが油(聖霊であり、キリストへの信仰)を準備することでした。愚かな娘は、油を備えませんでした。

キリストは、必ず再び来られます。王の王、主の主として、審判者として来られることが、初臨(救い主として2000年前にご降誕された。)の二倍も聖書にしるされています。詳しくは、近くの教会にお出かけください。

あなたの上に聖霊の祝福が望み、五人の娘がもった賢い信仰が与えられますように、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰52」11月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」は、幼子のような信仰です

”そのとき、弟子たちがイエスのもとに来て言った。「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか。」すると、イエスは幼子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた。「よく聞きなさい。心を入れかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」マタイ18:1-4(口語訳聖書)

 

この世の中では、持ち物の多さや、知識の高さ、立場や地位の有無などがある者が偉いと判断します。しかし、イエスは、「この幼子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」と言われました。

イエスは、「神でありながら、神の姿を捨て、自らをむなしくして、人間の姿となられ、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。」ピリピ2:6-9

天の国とこの世の考えや法則には、大きな違いがあります。幼子のように、自分を低くして、天の御国に高く上げられたいものです。イエス・キリストがその模範です。

 


「神に受け入れられる信仰51」11月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、中風(全身に痛みをもたらす風土病)の友人をイエスに癒してもらった四人の信仰です。

ガリラヤ伝道のカペナウムの町の出来事です。イエスのもとに中風をいやしてもらうため、四人の友が訪ねましたが、家はいっぱいで入ることができません。彼らは屋根に上り、穴をあけて、中風の人をつり降ろしました。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。ところが、そこにいた律法学者たちが、心の中で「この人はなぜあんなことを言うのか。神を汚している。神お一人のほか、だれが罪を赦すことができよう。」

 

イエスは彼らの心を霊で見抜き、「罪が赦された。」と言うのと、「起きて歩けと言うのとどちらがやさしいか。」と言い、「人の子が罪を赦す権威を持っていることを示すために。」と重ねて言い、「中風の人に起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい。」と命じました。すると彼は起き上がり、床を取り上げ、出て行きました。そこでみな驚き、「こういうことは、かってみたことがない。」と言って神をあがめました。マルコ2:1-12

イエスは、「彼らの信仰を見てあなたの罪は赦されました。」と言われました。四人の友の信仰とはどのような信仰でしょうか。

第一に、友人に対する愛です。なんとしても癒され救われてほしいという愛をイエスは見られたのです。 第二にあきらめない不屈の信仰です。家がいっぱいの人で入ることができないにも関わらず、屋根に穴をあけてまでイエスを信じる不屈の信仰です。 第三に、四人が力を合わせた一致の信仰です

聖書に「一人は千人を倒し、二人は万人を倒す。」という言葉がありますが、信仰は足し算であり、掛け算でもあります。複数の者が心を合わせて信ずるとき、信仰は倍加するのです。

イエスを信じることが神の業です。イエスは、罪を赦し、病をいやす、霊と心と体の救い主です。

あなたの上に霊と心と体の救いと祝福をお祈りいたします。

 

 


「神に受け入れられる信仰50」11月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、らい病(ハンセン氏病)を癒された、十人のうちの一人のお話です。”イエスがエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られました。すると十人のらい病人が、「イエスさま、どうぞあわれんでください。」と癒しを求めました。イエスは彼らの願いを聞き、十人全員をいやされました。しかし、イエスのもとに来て感謝をささげたのは、ひとりのサマリヤ人だけでした。イエスは言われました。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者はこの外国人のほかには、だれもいないのか。」それから、その人に言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」ルカ17:11-19”

十人のうち一人だけが、いやされた恵みに感謝をし、イエスを崇めたのです。

詩篇に有名なダビデのみ言葉があります。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように新しくなる。」詩篇103:1-5 

世の中にも「受けた恩は岩に刻め。与えた恵みは水に流せ。」私の大好きな言葉です。 このらい病人は、肉体だけでなく、霊と心の救いも受けたのです。イエスは、すべての人を救うため、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目によみがえられた救い主です。受けた恵みを忘れることがないのが真の信仰です。あなたの救いと祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰49」11月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、レプタ銅貨二枚を献げた貧しいやもめです。名前は、聖書にしるされていません。 ある時、イエスは宮の献金箱の前で、人々が献金する様子を見ておられました。多くの金持ちが大金を投げ入れていたのです。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ二枚を投げ入れました。レプタは当時使われていた最小単位のお金で、現在の日本の金額に当てはめるならば、百円以下で、おそらく二百円弱に当たると思われます。

イエスは、このやもめの献げものに対して、こう言われました。「まことにあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、貧しい中から、あるだけ全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」マルコ12:41-44

なぜ、イエスはこのやもめの献げものを、だれよりも多く献げたと言われたのでしょうか。

第一に、彼女にとって生活費の全部を献げたとイエスは言われました。そこには多くの犠牲が込められていました。「愛は犠牲の大きさにより、はかられる。」という言葉がありますが、イエスは金額の大きさではなく、愛と犠牲の大きさを見られたのです。

次に、この女性は神への信仰をもってささげたと想像します。パウロは、献金に対する考えを聖書で語っています。

「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かにまく者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、しいられてでもなく、心に決めたとおりをしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。・・・。」Ⅱコリント9:6-11

このやもめにとり、少しの献げものではなく、生活費の全部という多くの献げものでした。さらにそれを喜んでささげたのです。イエスは、「自分の宝は、天にたくわえなさいそこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のある所に、あなたの心もあるからです。」マタイ6:20-21 

あなたの上に天の窓が開かれ、豊かな祝福が注がれますこと、お祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰48」11月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、ツロ・フェニキャ地方に住む、カナン人の女としか聖書に記されていません。マタイ15:21―28・マルコ7:24-30

 イエスがツロとシドン地方に宣教に行かれたとき、ギリシャ人で娘が悪霊につかれ苦しんでいる女が、イエスのうわさを聞きつけ、娘をいやし悪霊を追い出してくださるよう願い続けました。

するとイエスは冷たくあしらわれ、「わたしはイスラエルに遣わされた者で、異邦人には遣わされていません。」と言われました。 しかしこの女は、ひれ伏して「主よ。私を助けてください。」願い続けました。するとイエスは、「子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」と言われました。しかし、女は「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」その時、イエスは答えて言われました。「ああ、あなたの信仰は立派です。あなたの願いどおりになるように。」するとその時から、娘は悪霊が出て行き、いやされました。 

聖書の中で直接イエスから信仰が称賛されたのは、前回のローマの百人隊長とこの女だけです。二人ともイスラエル人ではなく、異邦人でした。イエスさまがご覧になるのは、いつも信仰です。では、何故、ツロの女性の信仰が、ほめられ娘が癒されたのでしょうか。

 

私は、二つの理由を上げたいと、思います。第一は、娘に対する母親の愛です。子供の病いを自分の苦しみとして、捕らえ何としても救ってほしいという愛の信仰です。 第二はイエスに対する不屈の信仰です。何度も冷たくされても、あきらめず、イエスに願い続け、必ずこの方は娘を救ってくださると信じ続けたことです。イエスは、信仰のテストをされたのです。あなたもこの女性のようにイエスさまから、称賛される信仰者になってください。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰47」11月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、ローマの百人隊長です。百人隊長とは、百人の部下を、千人隊長は千人の部下を持つ、ローマの軍隊組織のリーダーです。

ある時、百人隊長の一人の部下が、重い中風という病にかかり、苦しんでいました。百人隊長はイエスのみもとに来て、病をいやしていただくよう懇願しました。イエスは彼に言われました。「行って直してあげよう。」

しかし、百人隊長は、答えて言いました。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格はありません。ただ、お言葉をください。そうすれば私のしもべは直りますから。ともうしますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えばそのとおりにいたします。

イエスはこれを聞いて驚かれ、「わたしはイスラエル人の中でこのような立派な信仰を見たことがありません。』とその信仰を称賛されたのです。 詳細はマタイ8:5~13

聖書の中で、イエスに直接褒められた人物が、二人います。もう一人は、後日取り上げる、スロ・フェニキャの女性です。

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、百人隊長の信仰です。

 

第一に、しもべを愛する愛の信仰です。「愛がなければ一切は無益です。」使徒パウロの言葉です。

第二に、神の権威にたいする信仰です。自らがローマの軍人として権威に服し、権威の力を認識していた百人隊長は、すべての上におられる神の権威、イエスの権威を悟っていたのです。

第三に、神のみ言葉に対する信仰です。神は、目に見えませんが、み言葉が神なのです。み言葉は、時間や距離、空間を超越して働きます。

 

あなたも、百人隊長のような信仰者になられますこと、主の聖名により祝福しお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰46」11月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、12年間も長血(体内から出血してしまう婦人病)という病に苦しんでいた女性の癒しのお話です。

この女性は、多くの医者にかかりましたが、ひどい目にあわされ財産を使い果たし、しかも病はますます悪くなる一方であったと書かれています。。ある日彼女は、イエスのうわさを聞き、もしかしたらこのお方の着物に触ることができれば、わたしの病は癒されると思いはじめたのです。その思いはますます強くなり、イエスの着物に触れれば、わたしの病気は必ず癒されると考え、そのことをいつも口ずさみ、告白していました。

ある日、イエスが近くを通られたとき、彼女はイエスの着物に触りました。その瞬間、イエスのうちから力が出て彼女は癒されたのです。詳細はマルコ福音書5:25~34をお読みください。

 

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、第一にイエスさまなら、「わたしの問題は必ず解決するという信仰です。」この女性の場合は病気の癒しでした。聖書には「イエスのお着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたと書かれています。

第二に思っていただけでなく、絶えず言っていた、告白していたとも記されています。告白は所有をもたらすのです

第三に行動を実践することです。人の目を気にしたり、周囲の反対を恐れたり、今までダメだったからと、今度も同じだと、あきらめないことです。イエスはこの女性の信仰を喜ばれ、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」マルコ5:34

と告げられ、病気の癒しだけでなく、その後の生活にも安心と励ましを与えてくださいました。イエス・キリストは霊と心と体の癒し主、人生すべての救い主です。

あなたの人生すべてに、主の健康と救いの祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰45」11月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 本日の信仰者は、サマリヤの一人の女性です。名前は聖書には、書かれていません。この女性は結婚を5度もしましたが、死別か離別であるかは書かれていませんが、現在は、同棲中のような生活をしていました。しかし、心の底では、人生の本当の幸いや目的に飢え渇いていました。

ある時サマリヤのヤコブの井戸に、普通は朝晩の涼しい時間帯に水を汲みに来るのですが、人目を避けてこの女性は来たのです。そこにイエスがおられ、「わたしに水を飲ませてください。」と言われました。この女性は、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に水を飲ませてくださいと言われるのですか。」と驚いて尋ねました。

イエスはさらに「もし、水を飲ませてくださいと言う者がだれであるか知っていたら、あなたのほうからその人に求めたでしょう。その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

この物語は、ヨハネ福音書4章に、詳しく書かれています。イエスはこの女性の本当の心の必要をご存じでした。本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「本当の幸いや真実を心から求めることです。」私に大好きなみ言葉があります。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事をあなたに告げよう。」エレミヤ33:3

あなたがサマリヤの女性のように心から神を捜すなら、今がどのようであっても、必ず神にお会いするでしょう。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰44」11月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、取税人の頭であったザアカイです。当時の取税人は、ローマ帝国の属国となったイスラエルにおいてローマへの税を取り立てる仕事であったため、イスラエル人からは、嫌われていました。ザアカイの名前は、清いという意味ですが、当時多くの取税人が不正な取り立てを行っていたため、ザアカイも人々との交わりがなく孤独な生活であったように思われます。

 

ある日彼の住んでいたエリコの町をイエスが訪れ通られました。ザアカイはイエスのうわさを聞き、一目見たいと思いましたが、背が低かったので、多くの群衆に遮られ見ることができませんでした。前方のいちじく桑に木に登ったザアカイにイエスは言われました。「ザアカイよ。急いで降りて来なさい。あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは大喜びでイエスを迎えました。人々は「あの方は罪人の客となられた。」と言ってつぶやきました。

ところがザアカイは主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:1~9” 

 

有名な聖書のザアカイのストーリーです。本日の「神に受け入れられる信仰」とは悔い改めの信仰です。ザアカイはイエスの話を聞き、自分の行いや生き方、考えが間違った罪であることに気づき、心から悔い改めたのです。メシヤとしてこられたイエスは宣教を開始して言われた。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」マタイ4:17

 神の前に失われていたザアカイを救うためにキリストは来られたのです。すべての人を救うために十字架につき、三日目に罪と死を打ち破り甦られたのです。悔い改めは、方向転換です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17 

ザアカイは悔い改めにより、すべてが新しくされ、神の子どもになったのです。あなたの上に神の救いと祝福をお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰43」11月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、ユダヤ人の指導者であったニコデモです。名前の意味はギリシャ名で「民の征服者」です。ニコデモは、名前が意味するように、ユダヤ人の指導者であり、人格的にも優れ、信仰面ではパリサイ派に属し、政治、教育、宗教など、あらゆる面で世の中に於いてもエリートであり、多くの人々からも尊敬を受けるような人物でした。しかし、そのような彼にも、人生の問題や悩み、必要があったのでしょう。

ある夜、こっそりとイエスを尋ね「あなたがしているようなしるし(奇跡)は行うことができません。」ヨハネ3:2 すなわち、あなたは神が遣わされたメシヤ(救い主)でしょうかと質問したのです。イエスは、「まことにまことに人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:3 「まことにまことに人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。」ヨハネ3:5 と答えられました。

人はどんなに知識や教育、宗教などを会得しても、神により、霊的新生体験を持たなければ神の国にはいれないと告げたのです。ニコデモは、後にキリストが十字架で死んだその死体の葬りを引き受けました。ローマやユダヤ教の人々からの迫害や圧力にも屈せず、大胆にキリストを信じたことを証ししたのです。ニコデモが持った「神に受け入れられる信仰」とは、第一に本物の真理と救いを求めるということです。第二に、人やこの世を恐れず大胆な信仰を持つことです。最後はキリストに対する変わることのない愛と信頼です。

あなたもニコデモのように、真理と救いを求め、大胆に最後まで愛と信頼を持ち続ける信仰者になってください。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰42」11月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、盲人バルテマイです。目が見えないということは、今の日本では1級障害に当たり、とても重い障害です。 

あるとき、彼の住んでいたエリコの町をイエス・キリストが訪れた時、バルテマイはイエスのうわさを聞き、イエスの一行に向かって、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と何度も叫び続けたのです。周りにいた人たちは、彼をたしなめ黙らせようとしましたが、バルテマイはますます激しく「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんでください。」と主を呼び求めたのです。

 

するとイエスは彼を呼び私に何をしてほしいのか。」と問われ、バルテマイは「先生、目が見えるようになることです。」するとイエスは「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われ、たちまち見えるようになり、イエスについていった。マルコ10:46-52(略)

今日のバルテマイが持った「神に受け入れられる信仰」とは、どんな困難や反対にも、決してあきらめることのない「信じ求め続ける信仰」です。あなたの上に主の溢れる祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰41」11月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、ベタニヤのマリヤの三回目です。ベタニヤのマリヤの信仰でクライマックスは、キリストが十字架に着くことを悟り、その葬りの準備のために、高価な尊いナルドの香油を注いだことです。キリストの足元にひざまずき、ナルドの香油を惜しげもなくささげ、髪の毛でイエスの足をぬぐったのです。

マタイ福音書では、この行為がキリストの埋葬の用意として、後々までも福音の伝えられる全世界に記念として語られるであろうと言われました。なぜ、300デナリ(約10か月分の賃金)もの高価なものを、しかも当時の女性が、結婚生活のために大切に蓄えていた香油を注いだのでしょうか。

それは、メシヤ(救い主キリスト)への愛から生まれたものです。自分の罪を知り身代わりに命を捨ててくださるお方への純粋な全き愛が、十字架にかけられることを教えられたのです

 

このように、「神に受け入れられる信仰」で、最も優れているのは愛の信仰です。「愛は、すべてのものを完全に結ぶ帯です。」コロサイ3:14 あなたの上に神の愛と信仰が、豊かに満ち溢れますことをお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰40」11月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、ベタニヤのマリヤの二回目です。弟ラザロが、病気になり、遣いを出しイエス様をお呼びしましたが、死んで四日もたってイエス様が、マリヤとマルタのところに到着しました。そのとき、イエスは、「あなたの兄弟ラザロはよみがえるであろう。」と復活されることを告げました。   しかし、マルタもマリヤも「主よ。あなたが、もしここにいてくださったら私の兄弟ラザロは死ぬことはなかったでしょうに。」と答え、マルタは終わりの日によみがえることは知っています。」と答えました。二人ともこの時点では、ラザロのよみがえりを信じられませんでした。

しかし、イエスは言われたのです。「もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見ると、と私は言ったではありませんか。」イエスは、この後「ラザロよ。出て来なさい。」と命じられラザロはよみがえったのです。二人とも、死に勝利する復活の主の信仰を目の前で見、触れて体験したのです。マリヤは、この後、キリストの葬りの用意にと香油を注ぐのです

マリヤは、メシヤなるキリストには不可能がないこと、そして、すべての人を愛しておられることを悟ったのですマリヤが持った「神受け入れられる信仰」とは神に触れられる信仰です。


「神に受け入れられる信仰39」11月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、ベタニヤのマリヤです。三回に分けてマリヤの信仰を見ていきます。ベタニヤのマリヤはマルタとラザロの三兄弟としてよく聖書に登場しています。イエスは、よくこの家庭を訪問し、良き交わりと共に安らぎの時を持ちました。

ある日イエスが訪れた時、姉のマルタは接待のことで忙しく、心を乱していましたが、マリヤはイエスの足元にひざまずき、み言葉に聞き入っていたとあります。その時イエスは、「マルタ、マルタあなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」ルカ10:41-42

 第一回目のマリヤが持った「神に受け入れられる信仰」とは、イエスの語られるみ言葉に対する信仰です。神もキリストもみ言葉なるお方です。イエスは言われました。「天地は滅びるであろう。しかし、わたしのことばはけ決して滅びることがありません。」マタイ24:35 

マリヤのように最も必要で、最も良きもの、神の言葉、キリストの言葉を、第一にする信仰者になりたいものです。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰38」10月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、マグダラのマリヤを取り上げます。新約聖書には、6人のマリヤが登場します。ヤコブとヨセの母マリヤ、マルコの母マリヤ、ローマ書16:6に出てくるマリヤ、イエス・キリストの母マリヤ、ベタニヤのマリヤ、そしてマグダラのマリヤです。日本で例えるならば、良子や幸子などのありふれた名前です。(注、現在は~子のついた女性は少ない)

このマグダラのマリヤは、七つの悪霊を追い出された女性でした。しかし、キリストの復活に最初に出会ったのは、このマグダラのマリヤでした。なぜ、12弟子や、母マリヤやイエスの兄弟たちではなかったのでしょうか。考えられるのは、多く赦された者は多く愛するとあるように、自らの罪や苦しみの大きさが、誰よりも、救い主キリストに向かわせたのです。

マグダラのマリヤは、キリストと12弟子の宣教活動を支え続け、最後まで、十字架の死までも、目の前で見届けました。(ヨハネ19:25)イエスの復活の言葉を信じて、最後の墓まで見届けたのです。(マタイ27:61)自らの死の危険をもかえりみずに、愛は恐れを取り除く生き方を選んだのです。(Ⅰヨハネ4:18

墓の前で、復活されたイエスがわからず墓の番人と思い「もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どうぞ言ってください。私があの方を引き取ります。」と死体の受け渡しまで申し出ているのです。なんという、強く大きく純粋な愛でしょうか。マリヤが持った「神に受け入れられる信仰とは、愛の伴う信仰です

「いつまでも、残るものは信仰と希望と愛です。その中で、一番優れているのは愛です。」Ⅰコリント13:13 愛の信仰に生きる者になりましょう。

 


「神に受け入れられる信仰37」10月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の信仰者は、医者のルカです。彼はルカ福音書と使徒の働きを執筆しました。その特徴は、聖書を順序正しく忠実に書き記しました。イエス・キリストの御生涯と、教会の発展と働き、聖霊を通しての使徒たちの働きを、明確に後世に伝えました。

ルカは、12弟子ではありませんでしたが、医者として、当時の科学者として事実をわかりやすく伝えたのです。彼の「神に受け入れられる信仰」とは、真実、忠実、正しい知識からもたらされる、キリストの人格を備えた霊性と実際性のバランスが取れた信仰です

「あなたがたはこれらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。いと高き所から力(聖霊)を着せられるまでは都にとどまっていなさい。」ルカ24:48-49 

御霊の力(賜物)と御霊の実(キリストの品性)のバランスのとれたキリストの証人が医者ルカの持った信仰です。このようなキリストの証人が、日本に、全世界必要です。「神の御霊に導かれる者は、だれでも神の子どもです。」ローマ8:14 「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。」ローマ8:19

日本のリバイバルを祈り求めます。

 


「神に受け入れられる信仰36」10月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、主の兄弟ヤコブです新約聖書の中には、5人のヤコブがいます。12弟子でヨハネの兄弟ヤコブ、同じく12弟子でアルパヨの子ヤコブ、使徒ユダの父ヤコブ、マリヤの子である小ヤコブとイエスの兄弟であるヤコブです。ヤコブの手紙を書いた人物です。

彼の信仰は、行いの伴う信仰です。”それと同じように、信仰ももし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。さらに、こういう人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は行いによって、わたしの信仰をあなたに見せてあげます。」ヤコブの手紙2:17-18 

”罪からの救いは、一切の行いを伴わず、イエス・キリストの十字架による贖いを信じて救われます。しかし、信じて救われた者には、信仰に伴う行いが必要です。聖書では、困っているやもめや、孤児、在留異国人など、弱者と言われる人々への愛とあわれみの必要が述べられています。お互いにできることをして、行いの伴う信仰者になりたいものです。

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、行いの伴う信仰です。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰35」10月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、マルコ福音書を書いたマルコを取り上げます。 マルコ福音書の特徴はのしもべとしてのキリストを、現しています。マタイやルカ福音書のように系図がなく、最初からメシヤとしての働きが記されています。その特徴は、すぐにの言葉が多く用いられているように、実際的で、最後まで働かれたキリストの姿です。

マルコの父親の記述はなく、おそらく幼い時に父を亡くし、信仰深い母親に育てられたと考えられます。年若い時より神を信じ、バルナバとパウロの伝道旅行に同行したにもかかわらず、途中で挫折したことも記されています。使徒15:36-41 

このような弱さがあったマルコも後には、パウロから「マルコを連れて、・・・来なさい。彼はわたしの務めのために役に立つから。」と言わしめました。本日の「神に受け入れられる信仰」とは生長(成長)する信仰です人生は山あり、谷あり、沢山の困難や問題が山積しています。最初は敗北に感じるようなこともあり、弱さのゆえにマルコのように挫折体験を持つかもしれません。

しかし、大切なのはキリストから目を離さず、最後まで従い続ける信仰です。なぜなら、神の国は生長するからです。マタイ13:31-33 

マルコはしもべの姿をとられたイエスから、目を離さず、ついには偉大な伝道者になりました。 あなたの上に、主の豊かな恵みと祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰34」10月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、シモン・ペテロです。ペテロとは、の意味です。イエス・キリストとお出会いした時から、弱く、揺れ動く葦のような存在であったものが、不動の象徴であるペテロ(岩)と呼ばれました。ペテロは12弟子の最年長者であり、リーダーでした。12弟子のなかでも、ヨハネ、ヤコブとともにいつもイエスのそば近くで過ごしました。 ペテロは、イエスの愛をだれよりも受けたと、自他ともに思っていました。ゆえに、キリストが捕らわれ、命をとられるれるようなことが、おこっても自分だけは、キリストに従い続けると豪語したのです。「たとい、みんなの者がつまづいてもわたしはつまづきません。」マルコ14:29 

 

しかし、舌の言葉が乾かないうちに、イエスを三度も否み「私はイエスを知らない。」と、拒んだのです。そのようなペテロに対してイエスは、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22:32 ペテロの神に受け入れられる信仰とは悔い改めの信仰です。悔い改めはいのちです。

ペテロのように、幼子のような純粋で砕かれた心の信仰者でありたいものです。


「神に受け入れられる信仰33」10月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は取税人マタイです。 ”イエスは・・・言われた。「医者を必要とするのは丈夫の者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです。」”マルコ2:17 マタイの職業は取税人です。当時ローマ帝国の属国であったイスラエルは、ローマに税を納め、その取り立てを取税人がしていたため、彼らは多くの人々から嫌われ、取税人マタイも罪人の代名詞のように嫌われていました。

しかし、このマタイをもイエスは救い、12弟子のひとりに加えてくださいました。 ”イエスは・・・道を通りながら、収税所に座っているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。マタイ9:9 マタイは後に、マタイ福音書を書き記し、最後は殉教の死を遂げました。

マタイが、持った「神に受け入れられる信仰」とはどのような信仰でしょうか。 第一に自らの罪を悔い改め、神の前に砕かれ、低くされた謙遜な信仰です。 「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」マタイ23:11-12 彼はマタイ福音書で、自分12弟子の自分を「取税人マタイ」と紹介しています。古き自分を隠すのでなく、罪びとであったことを、自ら告白しています。

第二にキリストに対する全き従順です。”イエスは言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見出すのです。」マタイ16:24-25”

 第三にイエス・キリストの大宣教命令の、福音を宣べ伝え弟子づくりを実践したことです。イエスは、・・・こう言われた。「・・・それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。・・・」マタイ28:18-20 

神は信仰を喜ばれます。主の祝福をお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰32」10月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者はイエスの母マリヤです。マリヤの名前の意味は「強い」です。それは、性格が強いとか、この世的に強い立場や力が、有ることではなく、神にある信仰が強いという意味です。

 「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたとともにおられます。」ルカ1:28 クリスマスで有名な、み使いガブリエルの受胎告知です。更にガブリエルは言いました。「こわがることはない。マリヤ。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」ルカ1:30-31

 

マリヤは、この時、ヨセフと婚約中の身であり、もし、結婚前に子供を産むことがあるなら、姦通罪で石打ち刑になり、命を絶たれるかもしれないのに、信仰により、イエス誕生の母となったのです。マリヤは「ほんとうに私は主のはしためです。あなたのおことばどおりこの身になりますように。」ルカ1:38 マリヤがもった神に受け入れられる信仰とは、第一に神が全能で、神が最善をなされるお方と信じたのです

第二にマリヤ自身がメシヤの誕生を切に待ち望んでいた祈りの人でした。主との祈りの中で、神からの言葉を受け取ったに違いありません。

第三に、自分のためだけではなく、人々の幸いを待ち望む愛の人でした。今、全世界の人々に救い主の恵みが与えられているのは、乙女マリヤの信仰の結果です。マリヤのような信仰者の出現を心より祈ります。主の救いがあなたとご家族の上に注がれますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰31」10月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者はバプテスマのヨハネを取り上げます。バプテスマのヨハネは、メシャ(救い主)として、来られたイエス・キリストの道を備える先駆けとして働きました。

預言者イザヤは、ヨハネについて次のように語っています。”「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』そのとおりに。バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。”マルコ1:2-4  

ヨハネの神に受け入れられた信仰とは、第一にへりくだった謙遜な信仰です。ヨハネの告白です。「私よりも、さらに力のあるかたが、あとからおいでになります。私には、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもありません。」マルコ1:7「彼(キリスト)は栄え、私は衰える。」 ヨハネ3:30 ヨハネには多くの弟子がおり、大変な名声を誇っていました。当時は靴の紐を解いたり結んだりすることは、奴隷の仕事でした。しかし、それさえも行う値打ちがないと、自ら告白したのです。

 

第二にヨハネは、罪を徹底的に悔い改めることを宣べ伝えました。ヘロデ王の罪をも、権力を恐れず指摘したため、殉教の死をとげましたが、真実を曲げませんでした。第三に、無私無欲の真のリーダーです。彼は多くの弟子を産み育てましたが、その弟子たちがキリストに従うことを喜びとしました。ヨハネは、この世の名声名誉ではなく、天の御国の報いを喜びとしました。

 最後に、ヨハネは、誰よりも神と人々を愛して、死に至るまで、自分に与えられた使命と働きを全うしました。イエスは言われました。「女から生まれた者の中で、彼にまさる者はない。」マタイ11:9

バプテスマのヨハネの優れた信仰は、まだまだ多くあげることができますが、紙面が足りません。あなたの上に、彼のような信仰と、主の豊かな祝福をお祈りしています。

 

 


「神に受け入れられる信仰30」10月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。)へブル11:6

 

本日、取り上げる信仰者は、ヨナです。ヨナ書はわずか4つの章しかありません、そこに書かれていることはヨナの不従順と不信仰です。神は、ヨナにニネベの町(当時アッシリヤ帝国の首都➡現在のシリヤ)に、行って「救いを宣べ伝えよ。」と命じられましたが、彼は神に従わず、タルシシ行きの船に乗り込み神に不従順な者となりました。その結果、嵐にあい、海に放り込まれ、大きな魚に飲み込まれました。魚のおなかの中で三日三晩を過ごしました。

後には神に悔い改めて魚の腹から救われました。面白いおとぎ話のようですが、これはキリストが三日三晩、陰府に下り、よみがえられたことの予表でもあります。

ヨナは、救われたのち、ニネベに行き、神の救いを宣べ伝えました。ニネベの町の12万の人々は、罪を悔い改めて救われました。その時、ヨナは敵国アッシリヤの人たちが救われたのが気に入らず、再び神に文句を言いました。そして自らは、日よけのための一本のとうごまの木とその葉が枯れたのを、つぶやきました。

主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまずにいられようか。そこには、右も左もわきまえない、12万以上の人間と数多くの家畜がいるではないか。」ヨナ書4:10-11

神は私たちの愛する母国と日本に住む、すべての人の救いを望んでいます。愛の神に不従順のヨナではなく、神を信じて、神に受け入れられた信仰者ヨナのように悔い改めて、福音を宣べ伝える者になりましょう。

 


「神に受け入れられる信仰29」10月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者は、旧約最後の預言者と言われるマラキです。バプテスマのヨハネの出現まで、約400年の間、預言者不在であったと言われています。マラキの名前の意味は「主の使い」です。

イエス・キリストの誕生までの期間、イスラエルは神の愛を忘れ(マラキ1:2)神への尊敬を失い(1:6)神のものを盗み(3:8)不道徳に陥り(2:11-14)神の定めた公儀に逆らいました。(3:13-15)

しかしマラキは、主の使いとしての使命を果たしました。「祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。」マラキ2:7  

 自らの使命とともに、やがて来られるメシアの働きを預言したのです。すべてのものは神から与えられています。神から与えられた、十分の一を神にお返しする必要と祝福を、マラキは強調しました。なぜなら、天の祝福が約束されているからです

「十分の一を、ことごとく、宝物倉にに携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。-万軍の主は仰せられる。-わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」3:10 

神から離れたイスラエルに、神とその約束に従うことを通して、回復の道を示したのです。最後の主の大いなる日(キリストの御再臨)の前に、家庭の回復の預言も示しています。ハレルヤ! 「彼は、父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」4:6  主の使いである、マラキの言葉を信じて、幸いな者となってください。


「神に受け入れられる信仰28」10月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者はビジョンの人ゼカリヤです。ゼカリヤはハガイと同時代の人で、イスラエルがバビロンに征服された時代の預言者です。そのような中で、主から多くの幻を見せられ、悔い改めの必要と、回復のビジョンを告げました。”主はこう仰せられる。「わたしは、エルサレムとシオンをねたむほど激しく愛した。・・・それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。-主の御告げー』” ゼカリヤ書1:14-16

「シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。-主の御告げーその日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。」2:10

 神に受け入れられる信仰とは、困難や逆境の時にも、ビジョン(希望)を失わず主への信仰に立つことです。ゼカリヤはイエス・キリストの御再臨に対しても、預言しています

「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は、北へ移り、他の半分は南に移る。」ゼカリヤ14:4 

この預言はキリストの地上再臨を詳しく述べたものです。聖書の預言は必ず実現します。ビジョンの人ゼカリヤを通しての主の言葉です。あなたもどんなときにもビジョン(希望)を持ち続けて歩んでください。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰27」10月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる神に受け入れられた信仰者は、預言者ハガイです。ハガイはアッシリヤ、バビロンにより破壊されたエルサレム神殿の回復、復興に用いられた人物です。 ハガイはゼカリヤとともに常に励ましを与えました。ゆえに、わたしは激励者ハガイと名付けます。ハガイは神の言葉を受け、預言します。「山に登り、木を運んできて、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」ハガイ書1:8 

「主は・・・ユダの総督ゼルバベルの心と・・・大祭司ヨシュアの心と民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事にとりかかった。」ハガイ書1:13-14 神殿再建には、多くの困難や反対がありました。しかし、どんなときにもハガイは励ますことを、実行しました。

ゼルバベルよ。今、強くあれ。―主の御告げー・・・大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。-主の御告げー仕事に取り掛かれ。私があなたがたとともにいるからだ。万軍の主の御告げー」2:6 

・・・わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸を揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。銀はわたしのもの、金もわたしのもの。-万軍の主の御告げーこの宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。-万軍の主の御告げー」2:6-9 

ハガイはどんなときにも励ましを与えました。聖霊なる神は、励ますお方です。あなたの人生を常に励まし、神の国である主の宮(教会)を建てあげるときに、困難や試練があっても神は励まし、すべてのことを実現されます。

あなたも、ハガイのように励ます器になってください主の祝福をお祈りしています。



「神に受け入れられる信仰26」10月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる信仰者はネヘミヤです。ネヘミヤはエルサレム神殿と城壁再建に神が用いた人物です。今、世界中が新型コロナのため、大変な危機的状況に陥っています。ネヘミヤはイスラエルが危機の時に神が立てたリーダーです。

ネヘミヤはエルサレムと城壁再建のため、まず第一に神の前で祈りをささげました。国と民、そして自らの罪を悔い改めて祈りました。神が用いる真のリーダーは祈りの人です。ネヘミヤ1:4-6 第二に城壁の壊れ崩れた個所を、自ら調査して、何が必要かを神に求めま受け取りました。

第三に人々に同じ回復のビジョンと使命を共有して分け与え、組織化し、先頭に立って働きました。そして、反対する敵や困難を恐れず勇気をもって大胆に戦いました。最後ににネヘミヤは無私の心で奉仕し、すべての栄光を神に帰しました

「神に受け入れられる信仰」とはネヘミヤのような危機の時に神により頼む真のリーダーです。今の時代日本に世界に、そして私たちの周りにネヘミヤのような信仰者が起こることをお祈りします。あなたがその人です。


「神に受け入れられる信仰25」10月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる信仰者は、祈りの人ハバククです。聖書の中でも、ハバクク書は短く、あまり取り上げられません。しかし、ハバククはとても重要な信仰の人です。16世紀に宗教改革を成した、マルチン・ルター「義人は信仰によって生きる。」ハバクク2:4のみ言葉より、神からの啓示を受け取り、人を恐れず信仰によって、宗教改革を行いました

 

「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、わたしの訴えに何と答えるかを見よう。主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として、走るために、板の上にはっきり書きしるせ。」2:1:2 ルターはハバククの信仰に励まされ、三つの大きな改革を行いました。

①救いは、免罪符や修行やカトリック教会の教皇によるのでなく十字架の贖いを信じる信仰によるという、「救いの改革」であることを示しました。

②当時、聖書は主にラテン語で書かれ、一部の特権階級の人だけが、読むことが許されていたのを、すべての人が母国語で読めるよう翻訳事業に力を注ぎ、「聖書改革」を行いました。

③一部の聖職者と言われる特権階級の人だけが祭司ではなく、すべての信仰者が、祭司であるという「万民祭司改革」を行いました。

これらの土台となったのがハバククの信仰です。ハバククは預言しました。「まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。」2:14 良き信仰、強い信仰、神に受け入れられる信仰は、次の世代、後の世代に継承されていくのです。

あなたも、「神に受け入れられる信仰」の継承者になってください。

 


神に受け入れられる信仰24」10月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる信仰者は預言者ヨエルです。ヨエルの名前の意味は、「主は神」です。ヨエルの時代、イスラエルはイナゴの害とききんにより経済的貧困、そして何よりも、霊的面で不信仰になり、悔い改めの必要がありました。”「しかし、今ー主の御告げ。ー心を尽くし、断食と涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かで、災いを思い直してくださるから・・・シオンで角笛を吹き鳴らせ。断食の布告をし、きよめの集会の振れをせ。・・・”

 

真の神は義を愛し、不正を嫌われます。真の罪の悔い改めのある所に、聖霊の恵みが下るのです。初代教会の120名に、イエスの約束の御霊が下りました。その時ペテロが立ち上がり、神の言葉を語り告げました。この聖霊の注ぎは、預言者ヨエルの預言成就だと大胆にメッセージをしたのです。

 

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにもはしためにもわたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」使徒の働き2:17-18 ヨエルが神に受け入れられたのは、「主を切に求め、罪を心から悔い改め、聖霊様に全く従ったゆえです。人を生かすのは、霊であり、肉(生まれながらの古き性質)は何の役にも立ちませんません。」

ヨエルのように、悔い改めと切なる祈りで「神に受け入れられる信仰者」になりましょう。

主の祝福をお祈りしています。

 

 


「神に受け入れられる23」10月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日は愛の預言者と呼ばれたホセアの信仰を取り上げます。ホセアはアモスのすぐ後に立てられた預言者です。アモスが義を強調したのに対して、ホセアは愛を強調しました。自らの妻、ゴメルが姦淫を犯したにもかかわらず、神の愛で妻を赦し、愛し続けたのです。これは、イスラエルが偶像礼拝をして、神を悲しめ苦しめたのにもかかわらず、神の愛を説き続けた神とホセアの姿です。神は、罪は滅ぼしますが、罪を犯してしまう人々は哀れまれます。

 

神の義と愛は福音の両面です。どちらが欠けても、正しい福音にはなりません。「私たちが、神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10

ホセアは、この愛と義の神を知ることを切に求めました。「わたしたちは主を知ろう、切に主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現われいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される。」ホセア6:3 神は愛です。「キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちは、兄弟のために、命を捨てるべきです。」Ⅰヨハネ3:16 

ホセアは、愛なるキリストを予表する愛の預言者です。「尊いのは愛によって働く信仰だけです。」ガラテヤ5:6


「神に受け入れられる信仰22」10月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の「神に受け入れられた信仰者」預言者アモスです。 あまりなじみのない人物ですが、回復とさばきの両面の預言をしたことがアモス書に記されています。彼が働いた時代はヤラベアム2世が、北イスラエル王国を統治した時のことです。経済的、物質的に繁栄を極めましたが、霊的、信仰面は堕落した時代でした。そのような中で農夫であり牧者のアモスを神は、召し出されました。アモスは、繰り返し「イスラエルよ。あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」4:12「主を求めて生きよ。」5:1「善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の主があなたがたとともにおられよう。」5:14 

アモスの信仰は、時の権力や、富や名誉などではなく、常に神を求め、民の幸いを覚え、公儀と公正を愛し、神を恐れたへりくだった人の持つ信仰です。神を忘れるなら審判がくだると預言しました。「見よ。その日が来る。―神である主のみ告げ。―その日、わたしは、その地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に主のことばを聞くことのききんである。」8:11

 

 最も恐ろしく悲しいことは、神が御顔を隠し、神の守りや恵みを失うことです。反面、最も素晴らしいことは、神の祝福を受けることです。「その日、わたしはダビデの倒れている幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように立て直す。」9:11(口語訳)「見よ。その日が来る。-主の御告げーその日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種まく者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。わたしは、わたしの民イスラエルの捕らわれ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。」9:13-14

 神は身分や権力ではなく、アモスのような、「神に受け入れられる信仰者」をいつの時代でも用いられるのです。あなたもそのような信仰者になってください。主の祝福をお祈りいたします。。

 


「神に受け入れられる信仰21」10月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日は、霊の預言者エゼキエルの信仰を取り上げます。名前の意味は、「神は力を与える」です。エゼキエルの力の源はどこにあったのでしょうか。それは、神の霊に満たされることでした。

イエス・キリストは聖霊に対して次のように語られました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38 

ここでいう聖書は旧約聖書のことであり、エゼキエル47章はその代表例です。神殿の敷居の下から流れ出た生ける水の川の幻をエゼキエルは見たのです。「この川が、流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。・・・川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉は枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」エゼキエル47:9-12 

エゼキエルは神の霊に満たされた預言者でした。「神に受け入れられる信仰」とは聖霊充満の信仰です。最後に聖霊のもたらす祝福を記します。①あらゆるものに神の命を与える ②水(世界・心・生活)が清められる ③多くの者が生き増える ④新しい実を結び生長(成長)が与えられる ⑤主の守りと癒しが与えられる

聖霊充満の信仰は神の力、祝福です。「聖霊に満たされなさい。」エペソ5:18

 

 

 


「神に受け入れられる信仰20」10月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる信仰者はエレミヤです。光の預言者イザヤとは対照的に涙の預言者と呼ばれました。北からバビロンが北イスラエル、南ユダを侵略し攻め滅ぼすことを預言し、悔い改めないなら滅ぼされると、涙を流し預言したのがエレミヤです。

預言者とは、神と交わり神からのメッセージを正しく伝えるのが使命です。皆に都合の良いことや、耳触りの良い言葉ではなく、真実を伝えるのが使命です。「人は、外の顔かたちを見ますが、神は常にその心の真実性を見られます。」 

「神に受け入れられる信仰」とは、心の真実です。新約聖書に多く語られている信仰(ピスティス)とは真実、忠実、誠実の意味があります。あなたの、心をエレミヤのように、ピスティスの信仰(真実、忠実、誠実)で満たしてください

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」あなたの上に主の祝福をお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰19」10月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

イザヤは、何故メシヤ(救い主)なるキリストに対して、手に取るように数多くのメシア預言をして神に用いられたのでしょうか。イザヤ6章にその答えがあります。それは神体験を受けたのです。自らの支えであり、頼りにしていたウジヤ王が死んでしまったときに、イザヤは弱さを感じ神を切に求め神に触れたのです。

聖書で、知る、見る、聞くなどの表現は、すべて、体験を伴うものです。”ウジヤ王が死んだ年に、わたしは高くあげられた王座に座しておられる神を見た。”6:1 

第一の体験は、王座に座する権威者であり、聖なる神を見たのです。 

第二は「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」6:5 イザヤは、自分の汚れた罪を見たのです。人間はすべての人が罪ある者です。罪がわからなければ救いもわかりません。自分の罪汚れ、弱さを知ることは恵みです。 

第三に救いを体験したのです。祭壇にいたセラフィム(御使い)の一人が燃えさかる炭火を彼の汚れた口に触れたのです。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」6:7 

第四に神からの使命を受けたのです。”私は、「だれを遣わそう。だれがわれわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。6:8

 

 本日のまとめです。イザヤが見、聞き、受け取った四つの神体験です。①神を見た。②自分の罪、汚れを知った。③主からの救いと赦しを受けた。④神からの人生における使命を受けた。あなたの、人生にこの四つの神体験が与えられますことをお祈りしています。その時あなたは、神と人にとって祝福な者とされるのです。

 

 


「神に受け入れられる信仰18」10月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日取り上げる信仰者はイザヤです。イザヤは南ユダ王朝のウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの4人の王の時代に53年間の長きにわたり、預言者として、神と人々に仕えました。彼はユダの有力な家柄出身で、涙の預言者と言われたエレミヤと対極的な光の預言者であり、救い主イエス・キリストに関する数多くのメシヤ預言をしています。 

「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女が身ごもっている。そして、男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」イザヤ7:14、

”ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。”イザヤ9:6-7 

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」イザヤ11:1-2 この他に沢山の預言をしています。救い主キリスト、統治者キリスト、審判者キリストの誕生、働き、ご性質など挙げればきりがありません。

なぜ、イザヤはメシアなるキリストに対する預言ができたのでしょうか。それは、次回に詳しく述べますが、ひと言葉で言えば、常に神を愛し、求めた神に対する信仰の持ち主でした。「神に受け入れられる信仰」とは、神とともに生きる歩みそのものなのです。あなたも、神とともに歩まれますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰17」10月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日はダニエルとヘブルの三少年の信仰を取り上げます。ダニエルは、ノア、ヨブと並び三大義人と呼ばれた正しい人でした。イスラエルをバビロン王国が、支配した時ダニエルとヘブルの三少年(シャデラク、メシャク、アベデネゴ)は、神を愛し恐れる、とても優れた信仰の持ち主でした

「神はこの四人の少年に、知識とあらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」ダニエル書1:17

 彼らの信仰は命ををとられることさえも、恐れない信仰でした。バビロンのネブカデネザル王が、金の像を拝まない者は、火の燃える炉に投げ込むと命じた時、彼らは王に言った。「私たちはこのことについて、あなたに答える必要はありません。もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、そうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むことはしません。」ダニエル書3:16-18 

 

また、王以外のものに祈りをすることの禁令が出され、これを破る者は獅子の穴に投げ込むと、法律が発布されたときも、ダニエルはいつものように、日に三度、イスラエルの神、天地を創造されたまことの神に祈りました。彼らは、火の炉の中から、獅子の穴から無傷で助けられました。創造主なる神は、生きておられます。信じる者を助け、働かれます

「たとえ、そうでなくてもまことの神を信じます。」ダニエルと三少年が持った信仰は、命を支配しておられる神に命を懸けた信仰です。日本でも、長崎の二六聖人を、初め多くの殉教者たちが、命を懸けた信仰に生きました

「だれでも、わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして、わたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失うものはそれを見出すのです。人はたとい、全世界を手に入れてもまことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16:24-26


 

 

「神に喜ばれる信仰16」10月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

多くの信仰の人物の中でも、代表的な人はヨブです。本日は、ヨブの信仰を取り上げます。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」ヨブ記1:1 聖書の中で、三大義人と呼ばれる一人がヨブです。「たとい、そこにノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。―神である主の御告げ。―」エゼキエル14:14 

ヨブの生きた時代、彼ほど正しく公正で誠実な人は、おりませんでした。あるとき、サタンが来て、ヨブが罪を犯さず正しい生活をしているのは、物や人に恵まれ多くのものを、所有しているからこれらを失えば、神を呪い罪を犯すに、違いないと神に訴えます。神は、サタンにヨブの命以外すべての所有物を取り除くことを赦されました。

しかし、ヨブは神を礼拝し、「わたしは裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言って罪を犯さなかった。ヨブ記1:21-22 ひとことばでいえば、ヨブは、「信仰と忍耐の人」です。

詳しいことは、聖書ヨブ記をお読みください。晩年、ヨブは前の人生の二倍の祝福を受け長寿を全うして、神の御元に帰りました。ヨブほど大きな試練を受けた人はありません。

み言葉は言います。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められる人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」ヤコブの手紙1:17 もし、あなたが試練や問題に会ったときは、ヨブの信仰を思い出し、信仰によって、勝利を勝ち取ってください。


「神に受け入れられる信仰15」9月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

昨日に、引き続きサムエルの信仰を取り上げます。サムエルの名は、「神に聞かれる」の意味であることを述べました。信仰は、神の言葉を聞いて、従うことです。サムエルも、その母ハンナも常に神を求める祈りと信仰の人でした。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。」ヘブル11:1(口語訳聖書

 

イエス・キリストも、いつもその人の持つ信仰に目を向けられ、「あなたの信仰は、見上げたものだ。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と称賛され、ある時は、「なぜ疑い、恐れるのか。信仰の薄き者よ。」と叱責されました。強い信仰、神に喜ばれる信仰の始まりは、神との絶えざる交わりが出発点です。

サムエルは、名前のごとく常に神と交わり、神の御声を聞き、そして従ったのです。あなたの進むべき道、成すべき働き、家族や周りの人々の必要、社会や世界に関する導きさえも、神を求める者に神は答えられます。アンテナが、電波を受信するように、神との祈りと交わりにより神からの言葉を受信し、サムエルのごとく、信仰によって歩まれることを、強くお勧めします。

あなたの人生には、必ず祝福の実が結ばれるでしょう。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰14」9月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

信仰の始まりは、神の言葉を聞くことから生まれます。「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリスト(神)についてのみことばによるのです。」ローマ10:17 本日の「神に受け入れられた信仰」の人物は、ハンナと預言者サムエルです。サムエルの名前は、【神に聞く】と言う意味であり、サムエルの母親はハンナという女性です。

ハンナには長い間、子供が生まれませんでした。イスラエルにおいて、その当時、結婚しているのに子供が生まれないという女性は、うまずめと呼ばれ、神からの祝福がないものと考えられていました。けれどもハンナは祈り深い、神を愛する信仰の人でしたので、神に誓願の祈りを献げて告白しました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、わたしを心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。…。」Ⅰサムエル記1:11

 

”日が改まって、ハンナは身ごもり、男の子を産んだ。そして、「私がこの子を主に願ったから。」と言ってその子の名をサムエルと呼んだ。生きておられる真の神は、祈りを聞かれるお方です。そしてこの神は、みことばにより、語られるお方です。神に求め、神の言葉を聞くことが信仰です。神は、神に祈り求める者に答えられます。「これが道だ、これに歩め。」と言われます。主の祝福をお祈りいたします。サムエルの信仰は明日取り上げます。 

 


「神に受け入れられる信仰13」9月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日の信仰者はダビデです。イスラエル王国の最も栄えた時の王様であり、今でもイスラエルにおいて、ダビデの墓にはたくさんの巡礼者が訪れています。ダビデについては、使徒の働き13:22に、次のように書かれています。「わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。」

神の御心にかなう者とはどのような人でしょうか。第一に、ダビデは常に神と神の御心を追い求め、神とともに歩む人でした。 第二に神を賛美し礼拝することを愛した礼拝者でした。 第三に、神に敵対するものとは、大胆に戦う信仰の勇士でした。このような偉大なダビデにも大きな罪の失敗がありました。

しかし、ダビデは、心から罪を悔い改め、砕かれた者になりました。詩篇にダビデのマスキール(教訓)として、次のような歌が述べられています。”幸いなことよ。そのそむきを赦され罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人。心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。・・・私は自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。”詩篇32:1-5

 いつの時代でも、本当の幸い、すなわち、神が喜ばれるのは悔いた砕かれた心で、罪を心から悔い改めるその人です。ダビデのように主とともに歩む者となりましょう。

 

 


「神に受け入れられる信仰12」9月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

士師記に登場する次の人物は、サムソンです。スーツケースで有名なサムソナイトの名前の語源にもなりました。サムソンは、イスラエルに、いつも敵対するペリシテを、何度も打ち破った信仰の勇者です。あるペリシテとの戦いでは、主の霊に満たされて言いました。「ろばのあご骨で、山を積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち倒した。」士師記15:16 彼の強さの秘訣は、ナジル人としての聖別された聖さにありました。しかし、彼は人間的弱さがあり、神の聖さを失った時、神からの力がなくなりました。けれども、罪を悔い改め、神への信仰に立ち返った時、最後に自分の命と引き換えにそれまで以上のペリシテ人を打ち倒しました。本日の「神に受け入れられる信仰」は悔いた心の信仰です。

「神の御心に添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。御覧なさい。神の御心に添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。」 Ⅱコリント7:10-11

神が喜ばれるのは、悔いた砕けた、魂です。


「神に受け入れられる信仰11」9月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

ルツの生きた士師の時代は、イスラエルが神を忘れ不信仰により荒廃した世になりました。そのような中で、神はイスラエルを救うために多くの士師と呼ばれる信仰の勇者を起こされました。今回、取り上げるのは、その一人ギデオンです。ギデオンの名前の意味は、「切り倒す者」というとても力強い名前です。

しかし、神がギデオンを通して、イスラエルの最大の敵であったミデアンから救い、解放すると神からの召しを受けた時、ギデオンは、恐れおののき、私もわたしの部族も弱く小さい者ですと逃げ隠れました。そして、神の召されたことの証明として、目に見えるしるしを与えてくださいと、二度も求めました。神は、あえてこの世の弱い者、愚かで無力と思われるものを用いるのです

・・・神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世のとるに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。これは、神の御前でだれも誇らせないためです。」Ⅰコリント1:27-29

 

ギデオンのように自分の弱さを認めながらも、神にすべてをより頼む者が、最も強い者です。本日の神に喜ばれ受け入れられる信仰とは、「神にすべてをより頼む信仰」です。自分の弱さを認め、神に完全により頼む、その時、驚くばかりの(アメージング)恵みと祝福が下るのです。主の祝福をお祈りいたします。

 

 


「神に受け入れられる信仰10」9月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日は、ルツの信仰を語ります。ルツは旧約聖書に登場し、異邦人でありながら、キリスト誕生の家系に登場する女性です。マタイ1:5 姑ナオミに仕えたことも美しい物語です。しかし、最大の価値ある歩みは、真の神に仕えた信仰です。

ルツが生きた時代は、士師の時代で、とても荒廃し、イスラエルの民の信仰が希薄な時であり、しかも彼女の夫も死んでしまうという試練の生涯でした。

そのような中で、ルツは言った。「あなた(ナオミ)を捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし、死によって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ルツ記1:16-17

 ルツは、天地を造られた真の神を信じ、姑ナオミを最後まで愛し続けると、固く心に決めたのです。やがて、ボアズと結婚し、キリスト誕生の先祖になったのです。詳しいことは、聖書ルツ記を読み、またお近くの教会にお出かけください。ハレルヤ!「いつまでも、存続するものは、信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13

 

 


「神に受け入れられる信仰9」9月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

ヘブル11章には、今までの信仰の勇者の後にも、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと、多くの信仰者の名前が列記されています。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」ヘブル11:33-34

「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛です。」Ⅰコリント13:13 

ヘブル12章の冒頭には、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている。」と記されています。昔も今もこれからも神が受け入れ喜ばれるのは、信仰です。「世の勝つものは、だれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。私たちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。」今日も信仰によって歩みましょう。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰8」9月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

ヘブル11章は多くの信仰の勇者を列記していますがヨセフの次に記されているのは、解放者モーセです。「信仰によってモーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリスト(メシヤ)のゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。信仰によって、彼は王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過ぎ越しと血の注ぎを行ないました。信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。」ヘブル11:24-29 

 

モーセの信仰とはこの世よりも神の国を愛し、イスラエルの同胞の救いと解放を求め愛した信仰です。イスラエルを400年にわたるエジプトからの奴隷状態から解放したのです。昭和初期に神の預言者と言われた内村鑑三は二つのJを愛すると告白しました。それは Jesus(イエスキリスト)とJapan(日本)です。真の信仰者は神と民(隣人)を愛するのです。モーセが神と同胞の民を命を懸けて愛したように、神と日本の救いを愛し願うものです。主よ!日本を訪れてください。

 

 


「神に受け入れられる信仰7」9月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

本日はヨセフが持っていた信仰を語ります。創世記37章~50章まで、ヨセフ物語が記されています。ヨセフに関して創世記では、アブラハムよりも多くのページで記されています。では、ヨセフが持った信仰とはどのようなものでしょうか。ヨセフはヤコブが愛したラケルの産んだ子であり、年寄り子であったので、父ヤコブに特別に愛されて育ちました。少年時代に自らの高慢さとお兄さんたちの妬みの故、ミデアンの隊商に奴隷として売られてしまいました。

詳しいことは創世記のヨセフ物語をお読みください。彼は、家族から離れ、数多くの試練を受けて、神に砕かれ愛と赦しの誠実な人に変えられました。

彼の信仰とは、「愛と赦しと誠実に満ちた信仰です。」ヨセフを通して、ヤコブとその子供たちは、飢饉から救われ、エジプトに住みつきイスラエル民族が形成されましたこのイスラエル民族を通して救い主イエスキリストが、誕生したのです。「人は外の顔かたちを見る、神はその心を見る。」Ⅰサムエル16:7 ヨセフのようにその心が「神に受け入れられる信仰」を持つものになりましょう。

 


「神に受け入れられる信仰6」9月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、この表現は聖書にたびたび登場します。本日はヤコブの信仰に焦点を当ててみます。ヤコブは、兄エソウとの双子として生まれました。しかし、長男は兄エソウでした。イスラエルにおいては長男に相続権があり、多くの祝福は次男にはありませんでした。

 

ヤコブの名前は、「押しのける者」という意味があります。ヤコブには、人間的に多くの欠点がありましたが、神に対する霊の祝福を第一とする信仰がありました「神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに、加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33 兄エソウは、この世のもの、一時的なもの、目に見えることをのみ追求しました。長子の特権、父親からの祝福の祈り、これらを軽んじたエソウに対して、常に神を第一として、霊的祝福を求めたヤコブはやがてイスラエルと呼ばれ、息子12人がイスラエル民族の12部族となり、アブラハムの信仰の実を結ぶようになりました。

ヤコブを通しての「神に受け入れられる信仰」とは、神第一の信仰です。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ33:3 ヤコブの信仰で、神を第一に求める者になりましょう。主の祝福をお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰5」9月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

 

本日はノアの信仰を取り上げます。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事柄について、神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」ヘブル11:7 

ノアの時代、世界は非常に乱れ、罪が蔓延する状況でしたが、ノアはその時代の正しい人でした。神は、ノアを通して警告を与え、罪を悔い改めないなら、大雨によって地を滅ぼすと言われ、救いのために箱舟を造るよう命じました。有名なノアの箱舟です。

しかし、人々は、神を信じることをせず、ノアとその家族8人だけが、救いの箱舟にはいり、救われました。今日も、同じようにキリストを通して「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31と語っておられます。

救いは神からの恵みと、それを信じて受け入れる信仰によって実現します。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。・・・。」エペソ2:8 ノアのように周りや時代の人々が不信仰でも、家族も含めた救いを心より信じましょう。救いは恵みと信仰によるのです。

 


「神に受け入れられる信仰4」9月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

 

「神に受け入れられる信仰」のテーマのみ言葉であるへブル書には、沢山の信仰の勇者が記されています。本日はエノクの信仰を取り上げます。ひと言葉で彼の信仰を表現するならば、「神とともに歩んだ信仰です。」

神は肉体の目や耳で見ることも、聞くこともできません。しかし、エノクは目に見えない神の声を聞き、神と語り合い、神に触れ神と、ともに歩んだのです。肉眼では見えませんが、神を信じる者には見えるのです。聖霊を通して与えられている霊の目、霊の耳を用いて神と共に歩み続けたのです。

 

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方があなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」ヨハネ14:16ー17

イエスが約束された御霊により、エノクのように神とともに歩む信仰者になりましょう。

 


「神に受け入れられる信仰3」9月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

 

旧約聖書には、信仰という言葉は、ハバクク書2:4にのみ出てきます。信仰を意味するのは従うという言葉です。その代表例は、アブラハムであり、イサクです。

新約聖書ヘブル11:17で「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」

信仰には行動が伴う必要があります。これを信仰の従順と言います。使徒パウロは次のように述べています。「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」ローマ1:5

 

なぜアブラハムが信仰の父と呼ばれたのでしょうか。それは、神の約束の言葉をいただいて、神に従い続けた信仰の結果です。彼は盲目に従ったのではありません。全能なる神、愛と恵みの神、共におられる祝福の神の約束の言葉を握って従ったのです。あなたにも私にも、同じこの神が信仰の従順を願っておられます。喜びと確信をもって神に従い続けましょう。


「神に受け入れられる信仰2」9月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

 昨日のローマ書の続きのみ言葉です。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義と認められたのです。」ローマ4:19-22

アブラハムの信仰とは④決してあきらめない信仰です。妻のサラの胎が不妊であることを認めながら、自ら百歳でありながらもその信仰は弱らなかったのです。なぜなら、⑤彼の信仰は神の約束のみ言葉に信頼したからです。⑥その信仰は全能の神を信ずる信仰です。人の力には限界があります。

しかし、神は無から有を呼び、死から命を生み、不可能を可能にするお方です。どんな状況下でも、最後まであきらめず、アブラハムに倣い、不屈の信仰者になりましょう。主の祝福をお祈りいたします。

 

 


「神に受け入れられる信仰」9月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

 本日よりは、「神に受け入れられる信仰」と題して、お語りします。新約聖書に最もたくさん出てくる言葉・メッセージは信仰です。次にキリストの再臨と言われています。信仰が無くては、神に喜ばれない、逆に言うならば、信仰を神は喜ばれるのです。信仰といえばアブラハムです。彼は信仰の父として、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教徒さえ、彼を信仰の父と呼んでいます。では第一回目としてアブラハムはどのような信仰を持っていたのか、見てみましょう。

 「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりにアブラハムは私たちすべての者の父なのです。”このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし(①復活信仰)無いものを有るもののように、お呼びになる方(②無から有を生み出す創造信仰)彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。(③あきらめない信仰)それは、あなたの子孫はこのようになる。」と言われたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。本日は、この3つの信仰です。

「信仰とは望んでいる事柄を、確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人々はこの信仰のゆえに賞賛されました。」ヘブル11:1

 


「助け主なる聖霊様40」9月12日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

 本日は助け主、聖霊様の最後のまとめです。パラクレートス(助け主)なるお方は、いつでも、どこでも、どんなときにも、イエス・キリストを心から信じる者と、共にいて助け、励まし、慰め、導き、教え、いやし、救い、勝利に導いてくださいます。最後の晩餐での遺言メッセージは、キリストの心そのものです。その証明として繰り返し、助け主なる聖霊の来られることを預言しました。ヨハネ14:16-20、14:26-27、15:26-27、16:7-15

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに、戻ってくるのです。」十字架で死なれた、イエス様は、預言の通りの3日目によみがえられました。天の御座に着座された主イエス・キリストは約束の御霊を遣わしてくださいました。そしてもう一つの大きな約束は、すべての者を審判する王の王として、ご再臨してくださるのです。「主よ。来たりませ。マラナタ。」ことごとくすべての約束を実現される、主の御心がなされますことを、お祈りいたします。


「助け主なる聖霊様39」9月11日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

聖霊が人格を持っておられることは、以前に「風(霊=プニューマ)は思いのままに吹く」ヨハネ3:8で述べました。もういちどこのことに触れたいと思います。聖霊が人格を持っていることを証明するみ言葉を見てみます。①「主の御霊を欺き試みたアナニヤとサッピラの行為」使徒5:1-11 ②「神に聖霊を悲しませてはいけません。」エペソ4:30 ③「御霊を消してはいけません。」Ⅰテサロニケ5:19 これらの御霊に関するみ言葉は、すべて聖霊がたんなる力や物体ではなく人格(ペルソナ)を持っておられ、聖霊が好むことと好まないことを、はっきり示しています。すなわち、私たちが聖霊に好まれる性質や行い、言葉などに、生きるなら聖霊は共に歩みともに働き、御霊の祝福をもたらしてくださいます。逆に聖霊が悲しみ望まない生き方をするとき肉の実を結び罪の支配や影響に縛られてしまいます。「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」ローマ8:5-6 神は良い神様です。御霊に満たされ、導かれて幸いな祝福された人生を歩まれますことをお祈りしています。

 

 


「助け主なる聖霊様38」9月10日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:18-19 ここで、聖書は「御霊に満たされなさい。」と、命令形で述べています。ここで満たすは、プレローマ(プレロー動詞)という言葉で、満ち満ち溢れるという意味です。普通に満たされるというときには、ピンプレマイ(満ちる)が用いられています。神は、聖霊に満たされること、更に聖霊に満ち満ち溢れて泉のようにあふれ流れ出ることを命じかつ望んでいます。”さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。”ヨハネ7:37-39 信じる者への最大、最良の助け主は聖霊様です。このお方に満ち満ち溢れるとき(プレローマ)生ける水の川が流れ出て、すべての者を、活かし、いやし、成長させ、豊かな実を結ばせるのです。エゼキエル47:9-12

聖霊充満の祝福をイエスの名でお祈りいたします。

 

 

 


「助け主聖霊様37」9月9日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

聖霊の現われは、9つの御霊の実と9つの御霊の賜物として現れます。御霊の実とは聖霊を通して結ばれる神(キリスト)の御性質です。ガラテヤ5:22-23には、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。御霊の賜物とは、聖霊を通して与えられる特別に働く能力です。「知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力です。」Ⅰコリント12:8-10

 この働きの能力と御性質は、車の運転にたとえるなら、アクセルとブレーキ、大工さんにたとえるなら、建物を建てる技術、能力とその人の品性、人柄のようなものです。どちらも必要であり、どちらが欠けても良き働きはできません。スピードを増すほどブレーキが必要です。神様は、あなたに聖霊の祝福を用意しておられます。それは御霊の実と賜物です。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば開けてもらえるからです。」マタイ7:7

神の豊かな聖霊の祝福をお祈りいたします。


 

「助け主なる聖霊様36」9月8日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

 昨日に続き、御霊の賜物について語ります。前回は賜物の目的についてのべましたが、今回は誰にどのような賜物が与えられているかです。「しかし、皆の益となるためにおのおのに御霊の異なる賜物が与えられている。」 Ⅰコリント12:7 ①各自(おのおの)に賜物が与えられている。②異なる賜物が与えられている。③全体の益のために賜物が与えられている。パウロは教会をキリストの体にたとえて次のように述べています。

”確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。たとい、足が「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかし、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を与えてくださったのです。もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。” Ⅰコリント12:14-20

御霊によって与えられたものを個人が誇るのではなく、自分一人のために用いるのでもなく皆の益、祝福のために用いるのです。また、ほかの人に与えられた賜物により、自分も益を受け、互いに仕え合うことが神の御心です。あなたにも、何か必ず賜物が与えられています。主の祝福をお祈りします。


「助け主なる聖霊様35」9月7日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」 ヨハネ14:16

 本日は、御霊の賜物とその目的について語ります。賜物とは贈り物であり、その人に与えられた特別な能力です。聖書ではタラントとも表現しています。一般的な賜物とは、広い意味で、その人自身が喜んでいることや興味あること、または人よりも優れていると思われることや、特に上達が早くて向上することなどです。しかし、神が聖霊によって与えるのは御霊の賜物です。聖書には、ローマ12章、Ⅰコリント12章、エペソ4章などに詳しく記されています。これら御霊の賜物が与えられていることで、共通していることがあります。それは、その人だけのためではなく、キリストの体の益のために与えられているのです。

「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じです。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる神です。しかし、皆の益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」Ⅰコリント12:4~7 すなわち、互いの益のために神からいただいた賜物(タラント=その人に聖霊により、与えられた優れた能力や働き、特技など)をもって互いに仕え合うためです。使徒ペテロの言葉をもって、締めくくります。

「それぞれが賜物を受けているのですから、神の恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」Ⅰペテロ4:10 御霊の賜物を熱心に求めてください。

 

 


「助け主なる聖霊様34」9月5日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

聖霊のバプテスマはどのようにして受けるのでしょう。

第一に神の約束の言葉を信じることです。「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって、約束の御霊を受けるためなのです。」ガラテヤ3:14 第二に求めることです。「求めなさい。・・・探しなさい。・・・たたきなさい。」ルカ11:9 「・・・天の父が求める人たちに、どうして、聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカ11:13 第三に牧師や神を信じる者に、手を置いて祈ってもらうこと、これを按手の祈りと言います。目的は、神との親密な交わり、自らの信仰の祝福と成長、そして人々へキリストの証人として福音を伝えることです。

聖霊に満たされることは、最も必要で大切な祝福なのです。あなたが、聖霊に満たされますことをお祈りいたします。


「助け主なる聖霊様33」9月4日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

「聖霊があなた方に下るときあなたがたは力を受けて・・・キリストの証人となる。」使徒1:8

聖霊に満たされるとき力を受け、キリストの証人になるとみ言葉は宣言しています。そこには二つ面があります。以前に聖霊は油にたとえられていることを語りました。油の性質は、しみこむと同時ににじみ出ることです。聖霊がうちに働くとき、その人をキリストに似たものに造り変え、外に働くとき、世を変え、人をも変えてキリストのご支配がなされていくのです。すなわち神の国の実現、御国の到来です・

「神が私たちに下さった霊は。おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎み(健全な精神の霊)です。」Ⅱテモテ1:7 

聖霊が充満するとき、あなたをキリストの姿に変え、あなたと関わる人々にキリストの救いと祝福を与え続けていくのです。その時、人々は言うでしょう。

「神は生きておられる。神は素晴らしい。私もキリストを信じようと。」

 

 


「助け主なる聖霊様32」9月3日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

 使徒の働きで聖霊が注がれたことが、2章、4章、8章、10章、19章に記されています。ここでのしるしは異言があげられています。2:4節「他国の言葉(異言=グロッサ)で話し出した。」10:46節「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」19:6節「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり預言したりした。」4章、8章では、はっきりと異言を語ったとは記されていませんが、「一同は聖霊に満たされ大胆に神の言葉を語りだした。」4:31節

「使徒たちが手を置くと聖霊が与えられるのを見た。」8:18節

どちらにおいても、聖霊が注がれたときに明確にその存在がわかるしるしがありました。それが神の言葉である異言と考えられます。異言については、またの機会に触れたいと思いますが、聖霊に満たされることが重要です。迫害を恐れて逃げ隠れていた初代教会の弟子たちが、ローマ帝国の権力やユダヤ教の力即ち、この世の力に負けることなく大胆にキリストの大宣教命令を成し遂げたのは聖霊の力です。今日においても同じです。すべてのクリスチャン、すべての教会が、聖霊の満たしによる力と愛を受けて神のリバイバルが成されますことを切望しお祈りいたします。

 

 


「助け主なる聖霊様31」9月2日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

聖霊は、約束の御霊と呼ばれています。

「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって、約束の御霊を受けるためなのです。」ガラテヤ3:14

聖書はこの約束について多く語ります。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2:28-29

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れるとあなたがたは生き返る。」エゼキエル37:14

イエス・キリストも証しています。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ち望みなさい。・・・しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:4-8神は約束されたことは必ず実行されます。これは信じるすべての人々、あなたと私への約束です。聖霊に満たされることこそ、すべてに勝る祝福です。主の御名により、祝福いたします。


「助け主なる聖霊様30」9月1日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

 前回に続いて、聖霊とみ言葉の関係について語ります。聖霊は信じる者に働きかけ、み言葉を理解する力を与えます。それゆえ、聖霊(パラクレートス)は最高の教師です。

「神はこれを、御霊によって私たちに掲示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかはだれも知りません。ところで私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」 Ⅰコリント2:10-14

このみことばが、示すように神に属すること、御霊に属すること、天の御国に属することは、すべて御霊が教えるのです。御霊のことは御霊ご自身が教えるのです。イエス・キリストの御霊が、あなたの人生を最高、最善の日々へと導いてくださいます。我が子よ。御霊が語られる声を聞きなさい。


「助け主なる聖霊様29」8月29日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

 本日は、聖霊とみ言葉の関係について語ります、

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」Ⅱテモテ3:16

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったからです。」Ⅱペテロ1:21

 聖霊なる神は、いつもみ言葉とともに働きます。聖書自身が聖霊によって動かされた人たちによって書かれたものであると証しています。

聖霊は人格を持ち、考え(ロゴス➡み言葉)を持っておられます。聖書の中に「耳のある者は御霊が言うことを聞きなさい。。」と繰り返し述べています。聖書の中に、あなたに必要なすべてのことが示されています。神を求めてください。きっとあなたの霊の耳を開いて、神の御声があなたを幸いな人生に導いてくださいます。主の祝福をお祈りいたします。



「助け主なる聖霊様28」8月28日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

聖霊さまは、人格を持ったお方です。このお方は、キリストを信じて受け入れたものとともに住んでくださいます。

「その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」ヨハネ14:17

 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人はキリストのものではありません。」ローマ8:9

御霊は信じる者のうちに住みともに生活してくださるのです。人生におけるあらゆる出来事や働きの中で、喜怒哀楽を含む、すべての営みを共有してくださるのです。人はともに住む者の影響を良きにつけ悪しきにつけ受けます。聖霊様は、良きご性質と優れた能力をお持ちのお方です。この御霊とともに歩み続けていくとき、キリストの姿に形造られていきます。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18 主の祝福をお祈りいたします。


「助け主聖霊様27」8月27日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

「もろもろの天は神に栄光を現し、大空はみてのわざをしめす。」詩篇19:1(口語訳聖書)

自然界は、すべて主の創造の御手により生まれました。広大な宇宙の星々、私たちが住む美しい地球、そこに存在するすべての動植物は、神の創造の作品です。

「主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それをみな、知恵をもって造っておられます。それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。そこには大きく、広く広がる海があり、その中で、はうものは数知れず、大小の生き物もいます。・・・あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。」詩篇104:24-30

この美しい自然界が人間の罪と欲のゆえに、破壊され始めています。しかし、主の赦しが続く限り、万物は保たれます。

「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪の清めを成し遂げて大能者の右の座に着かれました。」へブル1:3

み言葉と聖霊により、創造されたすべてのものを、新しくされるときが来ると聖書は語ります。イエス・キリストのご再臨です。詳しくは教会を尋ね、聖書をお読みください。

最後に、次のみ言葉で締めくくります。

「見よ。わたしはすぐに来る報いを携えて来て、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパでありオメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり終わりである。」

                         ヨハネ黙示録22:12-13

 

 


「助け主聖霊様26」8月26日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

神の創造の最高傑作は人間です。なぜなら、神の形に似せて人は造られたからです。

「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」創世記1:27

神の本質は霊(ヨハネ4:24)と言葉(ヨハネ1:1)です。神の言葉はロゴス(考え、思想)です。神は人を創造されたとき、イメージを持ち、神に似たものとして造られました。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息(霊)を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。」創世記2:7

 ヨブ記33:4には「神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。」とあります。あなたは、神に似た神の形を持っている者です。しかし、最初の人アダムが罪を犯し、神から離れた結果、人は神の子としての特権を失いましたが、イエス・キリストが罪を背負い十字架で死なれ、三日目に罪と死を打ち破られ蘇られ新しい命を与えてくださったのです。

詳細は、お近くの教会のお出かけくださり救いを体験してください。神はあなたを新しい神の子として、再創造されるのです。主の祝福をお祈りしています。



「助け主聖霊様25」8月25日

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたとともにおられるのです。その方は真理の御霊です。」ヨハネ14:16

本日より、教会ブログを再開いたします。

 聖霊は、創造されたすべてのものに関わりを持つています。「初めに天と地を創造された。」創世記1:1 有名な天地創造のみ言葉です。創世記にはあらゆるものの創造が記されています。「光よ。あれ。」と神が仰せられるとそのようになった。

 これらの創造に対して、詩篇33:6には、次のように書かれています。

「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶき(聖霊)によって。」詩篇104:30には「あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。また、あなたは地の面を新しくされます。」

神の本質は霊(ヨハネ4:24)であり、神はことば(ヨハネ1:1)です。

神の言葉を信じて、聖霊の力が働くとき、無から有を生み出される創造の御業が始まるのです。あなたは、何を生み出しますか。神の御心にかなった願いであるなら、必ず、あなたのすべての必要が創造主により、生み出されます。神の祝福があなたに豊かに注がれますようお祈りします。