教会ブログ3

神に受け入れられる信仰6


「神に受け入れられる信仰457」4月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰37」です。

NHKの朝ドラ「カムカムエヴリバデイ」が、最終回を迎え、すべてがハッピーエンドで終わりました。人生もハッピーエンドで迎えられるならば、感謝ですが、必ずしもそうとは限りません。

しかし、イエス・キリストのうちにあるならば、最後に勝利が約束されているのです。

「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのである。」ヨハネ16:33

全ての人の最後は、「いつ、どこどこで死んだ。」と言う共通の言葉で締めくくられます。

しかし、キリストにあるなら、この後に続く言葉があるのです。

今年も4月17日は「イースター=復活祭」が全世界で祝われます。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ11:25-26

イエス・キリストはすべての人の救いのために、罪を背負い十字架にかかりましたが、三日目によみがえり、罪と死とサタンに勝利されました

心から、神を信じ、キリストを受け入れた者に死はもはや死ではなく、永遠の命の出発点なのです。

生の最高のハッピーエンドは永遠の救いです。あなたの上に、キリストの救いと祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰456」4月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰36」です。

暗いニュースが多い中で、大谷翔平選手の二刀流が、始まりました。昨年は満票で、大リーグのMVPに選出されましたが、今シーズンへの期待が高まるばかりです。

大谷選手は、昨年度の活躍はすでに過去のこととして忘れて前に向かって前進するとのことです。聖書にもこれを裏付けるような、使徒パウロの信仰の歩みがあります。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:12-14

信仰における歩みは、永遠です。

この世の競技でも常に向上心をもって、前に向かうように、いやそれ以上に、パウロのように、前に向かいたく願う者です。


「神に受け入れられる信仰455」4月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰35」です。

春は気候も良く、花々が競い合うように咲き誇り、新芽が吹き出し新しい息吹を感じる季節です。

しかし、この良き季節に多くの人々を悩ませることがあります。花粉症です。

戦後日本は、焼け野原となった国土を将来にわたって復興するために、スギとヒノキを沢山植えた結果、日本の山は現在その影響で、スギとヒノキの花粉が異常なほど飛び散っているとのことです。

神が創造された自然界は、多くの木々が調和を持ち、互いが支え合っていますが、人間が作ったものは、時としてバランスを欠き、不調和が起こります。

大都市への人口集中、日本の東京、韓国のソウルなどの一極集中はその実例です。インドネシアでは、ジャカルタから首都機能をカリマンタンへと移すことが決定したそうです。

「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

アダムとエバが罪を犯すまで、この世界は、非常に良かったと表現されています。

今、ウクライナで行われているロシアの侵略戦争は、人間の罪の最たるものです。

「神の国と神の義をまず第一に求めなさい。そうすればすべてのものは与えられます。」マタイ6:33

神の国とは、神の統治であり、神のみ心が行われることです。神の義とは、神との正しい関係です。

今日も主の祈りをささげます。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイ6:10


「神に受け入れられる信仰454」4月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰34」です。

満開のさくらも、数日のうちに桜吹雪となり、気温も急上昇の今日この頃です。

春にはメイストームと呼ばれる、春の嵐が突然襲う時があります。時として、台風並みになることもありますが、人生においても嵐が時として襲うものです。

聖書の中でも、イエスと弟子たちがガリラヤ湖で、突然大暴風に出会ったお話があります。

”弟子たちはイエスのもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」イエスは言われた。「なぜこわがるのか。「信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」マタイ8:25-27

「いったいこの方はどういうお方であろう。」イエス・キリストは愛と力に満ちた神ご自身です。キリストは、どんな困難な嵐や問題をも、神の愛と権威をもって鎮めてくださいます。

人生には花の美しく咲き誇る季節も、時として突然襲う嵐もあるものですが、主がともにおられるなら、平安です。


「神に受け入れられる信仰453」4月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰33」です。

教会の花壇にチューリップの花が美しく咲き誇っています。

「さいたさいた チューリップのはなが ならんだならんだ あかしろきいろ どのはなみてもきれいだな

さいたさいた チューリップのはなが ならんだならんだ あかしろきいろ どのはなみてもきれいだな」

日本の童謡には素朴な歌詞の中にも、日本人の心の琴線に触れる味わいがあります。

春は桜や菜の花、れんげ、たんぽぽ、すみれ、すいせん、ゆきやなぎ、ハナミズキ、なでしこ、ヒヤシンス、そしてチューリップなど、本当にたくさんの花々が、心の疲れをいやし潤いを与えてくれます。

 私の大好きなみ言葉です。

「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」イザヤ35:1

このみ言葉はユダの荒野に一斉に咲き乱れるイスラエルの春を歌ったものです。

荒野と砂漠のような無味乾燥の世界に、神が与えるリバイバルを現わしたものと言われています。

争いの続くウクライナの地にも、春が訪れ、多くの花々が咲き誇るように、一日も早く平和が訪れるよう祈るばかりです。


「神に受け入れられる信仰452」4月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰32」です。

世界の情勢が、緊迫してきた感があり、ウクライナやミャンマーなどのニュースに、世界の平和を祈らずにはおれません。

イエスは、山上の垂訓の中で、「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」マタイ5:9

平和は、待っていて与えられるものではなく、造り出すものであると言われました。

世界の平和も、小さなことから始まり、小さなできることの平和を積み重ね、それが大きな流れになるのです。

世界の指導者が、神のみ心に立てるように祈りましょう。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い祈り、とりなし、感謝をささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平和で静かな一生を過ごすためです。」Ⅰテモテ2:1-2

時代は、平時の時と緊急時の時がありますが、ウクライナにおいては、侵略戦争が行われ、多くの人々の命が奪われ、国を追われ、避難民が増大し、国が破壊されています。

平時の日本の指導者が、世界の平和に貢献できるよう、戦禍のリーダーたちが神を恐れ、公義と公正を行うことができるように、人々の命が守られますように、とりなしの祈りを捧げましょう。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものなのです。」エペソ6:12


「神に受け入れられる信仰451」4月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰31」です。

春夏秋冬、日本ほど四季の美しくはっきりしている国は、珍しいのではないでしょうか。

そのため日本文化には四季の美しさや、移り変わりの様子が色濃く繁栄しています。

四季にあった服装、住まいの造り、日本食の繊細さや多彩さなど、数えればきりがありません。

春、4月と言えば、新しいスタートです。ピカピカの一年生、学校に会社に様々の環境に、飛び込む多くの人々がいます。

しかし、人間は外側や環境が変わっても、一時的、部分的変化であって、心の内面は変わることがありません。

イエスのみ言葉です。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ヨハネ3:3

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」ヨハネ3:5-6

キリストは心と霊を新しく誕生させることの出来る神ご自身です。

4月はイースターの季節です。木々に新芽が生え、美しい花が咲くように、新しい復活の命がキリストを信じるときに与えられるのです。

このブログをご覧になられた皆様の上に、新しい神からの命とスタートが与えられますように、お祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰450」4月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰30」です。

本日は年度替わりであり、多くの人々が、新しい門出を迎えます。

「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」イザヤ43:19

多くの人が、学びに仕事にと新しい環境に向かってスタートを切ります。

大切なのは、内側が新しくされることです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

全ての人は罪と言う古い生まれながらの性質を持っています。

そして、この罪の性質は霊と心と体に死をもたらします。しかし、イエス・キリストが罪のために十字架に身代わりとなり、死の代価を払い、罪と死とサタンを打ち破り甦られました。キリストの復活です。

この十字架と復活を福音(良き知らせ)と言います。

新しい始まりに対して、の最大の良きニュースがあるのです。詳しいことはお近くのキリスト教会にお出かけください。また、聖書をお読みください。

あなたの人生の上に、神の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰449」3月31日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰29」です。

ウクライナとロシアの停戦交渉が、トルコの仲介で持たれていますが、一日も早く争いがなくなり平和が戻ることを祈らずにはおれません。

今回の戦争は明らかに侵略であり、非はロシアにあることは明らかですが、聖書は争いの解決について、明確な基準を示しています。

マタイ18:15-18で語られたイエスの言葉です。

もし、兄弟が罪を犯した場合(争いの問題)は、まず当事者同士で直接話して、解決に当たることです。もし、聞き入れない場合(解決しない場合)はほかに、一人か二人を連れて行き、二人または三人の証人により解決に向かうことです。

それでも難しい場合は、教会に申し出なさいとイエスは言われました。

なぜなら、教会に御国のカギを与えたからです。教会が地上でつなぐことは天でも繋がれ、地上で解くことは天でも解かれると言うのです。

大きな国と国の紛争も、個人における争いも原則は同じです。

そして、赦しの大切さをイエスは、語られました。マタイ18:1-25参照

醜い戦争の中に、神の介入を祈らずにはおれません。

主を恐れること、公義公正の思いが与えられること、互いに赦し合い、愛し合うこと、互いに仕え合うこと、真実がなされること。

「主の祈り」の一文です。

「天にいますわたしたちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイ6:9-10


「神に受け入れられる信仰448」3月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰28」です。

名古屋にも桜満開宣言が出され、私の住む春日井市でも桜が春満開の訪れを告げています。

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」大正時代に主に活躍した、女流作家・歌人林芙美子の詩です。

花の中でも、特に桜は一斉に花を開き、あっという間に散ってしまいます。武士の心意気を現わし、良きにつけ悪しきにつけ多くの人々を感化してきました。

聖書の中にも似たような聖句があります。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」Ⅰペテロ1:24

ここで、決定的に異なるのは、人生を草花にたとえ、人の栄えはひと時であるが、神の約束の言葉は永遠であると違いを告げています。

この世だけでなく、永遠に心を留める者は、賢い人です。永遠に残るものとは何でしょう。

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」Ⅰコリント13:13-14:1

信仰と希望と愛は、すべてイエス・キリストの中に満ち満ちています。キリストと共に歩まれる人生を送られることを、心よりお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰447」3月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰27」です。

ウクライナの国旗は青と黄色の二色旗です。空の青さと、色づいた麦畑、国花のひまわりの黄色の大地を象徴としているとのことです。

世界の穀倉地帯と言われる肥沃な国土地帯は、今戦禍にまみれています。ひまわりは平和の象徴です。世界中でウクライナ国旗が、平和のシンボルとして掲げられ、一日も早く戦争の停戦そして、終結に至ることを祈らずにはおれません。

愚かな戦争を止める最大の力は、相互の愛です。

「私の上に翻るあの方の旗印は愛でした。」雅歌1:4

人間の愛は、自己愛で、条件付きの愛ですが、神の愛、アガペーの愛は無条件で、永遠の愛、敵をも愛する、キリストを通して現わされた十字架の愛です。

「いつまでも、残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。(愛を最高の目標としなさい。」=詳訳聖書Ⅰコリント14:1)

全世界に神の愛の旗が、翻る世界が天の御国です。

主の祈りの一節です。「・・・御国が来ますように。御心が天で行われますように、地でも行われますように。」ウクライナに平和を与えてください。


「神に受け入れられる信仰446」3月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰26」です。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」紀友則

高校生時代に、古文で習ったような習わないような、有名な桜を詠んだ歌だそうです。

意味は「日の光がこんなにものどかな春に日に、どうして桜の花だけは落ち着くこともなく散って行ってしまうのでしょう。」と書かれていました。

日本では、このようにのどかで平和な毎日を送れていますが、ウクライナでは日々、戦闘が激化し多くの尊い人命が失われています。

主が再びおいでになる再臨、すなわち世の終わりには、どのような前兆が起こりますかと弟子たちが尋ねた時、イエスは答えられました。

「戦争の事や戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけてあわてないようにしなさい。これらのことは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみなの初めなのです。」マタイ24:3-8参照

神はすべてのことを、ご覧になり、正しい審判を成されます。キリスト者である私たちがなすべきことは、祈りで神の介入が起こり、一日も早く平和が訪れることです。

ちなみにウクライナの国花は、ひまわりで、反戦平和のシンボルとのことです。

「いと高き所に、栄光が神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」ルカ2:14

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」マタイ5:9

いま、ウクライナにおいて、平和より尊いものはありません。


「神に受け入れられる信仰445」3月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰25」です。

ウクライナでの戦争が、はや1か月を超えて、さらに長期化する様相です。

戦争が長引くほど、多くの尊い命が失われます。

その一人一人に、愛する家族や、多くの友、つながる人々が存在します。

明治時代の歌人、与謝野晶子の反戦歌「君死にたまふうことなかれ」を紹介して、戦争の早期終結をお祈りするものです。

明治時代、日露戦争での旅順攻防戦に派兵された弟宗七の安全を思った歎きの反戦歌です。

「ああ、弟よ、君を泣く、君死にたもふことなかれ。末に生まれし君なれば、親のなさけも勝りしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せと教へしや、人を殺して死ねよとて、二十四までを育てしや。

 

堺の街のあきびとの老舗を誇るあるじにて、親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ。旅順の城は滅ぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、君は知らじな、あきびとの家の習ひに無きことを。

 

君死にたもふことなかれ。すめらみことは、戦いにおほみずからは出でまさね。互に人の血を流し、獣の道に死ねよとは、死ぬるを人の誉れとは、おほみこころの深ければ、もとより如何で思されん。

 

ああ、弟よ、戦ひに君死にたもふことなかれ。過ぎにし秋を父君に、おくれたまへる母君は、

歎きのなかに、いたましく、我が子を召され、家を守り、安しと聞ける大御代も、母の白髪は増さりゆく。

 

暖簾のかげに伏して泣く、あえかに若き新妻を君忘るるや、思へるや。十月も添はで別れたる少女(おとめ)心を思ひみよ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰を頼むべき。君死にたもふことなかれ。

 

明治時代の文章で、理解しずらい部分がありますが、弟を思う、姉の心が伝わります。

ウクライナとロシアの戦争の陰に、命を失った人々の悲しみ、苦しみがあることを忘れてはなりません。

神の介入による、戦争終結と、平和を祈らずにはおれません。


「神に受け入れられる信仰444」3月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰24」です。

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また何の喜びもない。と言う年月が近づく前に。」伝道者の書12:1

有名な伝道者ソロモンの、晩年のことばです。

全ての人間に絶対と言うことばが当てはまる二つのことがあります。聖書のみ言葉です。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」ヘブル9:27

日本人の平均寿命は、2020年の厚生労働省の統計によると、女性が87・74歳、男性が81・64歳で、共に世界一位であることがわかりました。

しかし、どんなに長く生きても必ず死は訪れます。それと同じく、死後に神の審判が定められているのです。

ソロモンは自分の死を前にして、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。禍の日が来ないうちに。また何の喜びもない。と言う年月が近づく前に。」と述べています。

わざわいの日とは、人が死を迎える時であり、「何の喜びもないという年月」とは、年老いて何もできなくなってしまったことを語っています。

わたしは、主の恵みとあわれみにより、18才の時に神を信じ、幸いな人生に変えられました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」と言うことばどおりに、今まで、そしてこれから永遠に至るまで、死を恐れることなく幸いな者とされていることに唯々感謝するのみです。

”神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”Ⅱコリント6:2

ブログをお読みの、あなたの上に主の救いと祝福が、与えられますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰443」3月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰23」です。

桜の開花宣言が、ちらほらと聞こえてくる季節になりました。

「ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。イチジクの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけて、かおりを放つ。わが愛するひとよ。さあ、立って、出ておいで。岩の裂けめ、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐をとらえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」雅歌2:11-15

このみ言葉は、ソロモンと愛する人の愛の歌です。

自然界に花が咲き乱れ美しく着飾るように、互いの愛を表現したものです。

ウクライナとロシアは同じスラブ系民族のルーツを持ち、兄弟のようだと言われてきました。

しかし、現在、ロシアの侵略により、多くの血が流され命が失われています。

自然界には美しい春が到来する季節にもかかわらず、冷たく暗い真冬の季節です。

ソロモンは、互いの愛を奪い、争いを引き起こす力を、ぶどう畑を荒らす狐にたとえました。

すべての悪や憎しみ争いの背後には、サタンの働きが存在します。

この侵略戦争が終結し、本当の春の季節が到来することを祈らずにはおれません。

なぜなら、愛し合い、仕え合い、信頼がある所に、真の幸いがあるからです。

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」マタイ5:11


「神に受け入れられる信仰442」3月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰22」です。

本日のブログは、関西での急な用事ができたため、わたしの大好きなみ言葉を記させていただきます。

「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名で、イスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」民数記6:23-27

このみ言葉は、祭司を通してのイスラエルに対する祝福の祈り、祝祷です。

あなたと言う個所に、あなたご自身の名前を入れて、読んで見てください。

神は、良き神、祝福の神です。

あなたとあなたのご家族、すべての必要、人生の上に神の豊かな祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰443」3月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰21」です。

私には多くのクリスチャンの友や知人がいます。

クリスチャンの恵みと特権は、祈り合うことの幸いです。インド・カルカッタの聖女と言われたマザーテレサは、愛の反対語は憎しみではなく無関心であると言われました。

今、ウクライナに必要な愛は祈りから生まれる行動です。

お互いが関心を持ち合い、互いに支え合う愛の社会こそ、平和と一致、感謝と喜びを生み出すのです。祈りは神の御手を動かす力です。

ソロモンが宮をささげた時の祈りです。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。」Ⅱ歴代誌7:14-15

私たちの教会のテーマは「主の家は祈りの家と呼ばれる」です。

ウクライナのために祈りましょう。


「神に受け入れられる信仰442」3月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰20」です。

「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。」イザヤ35:1-2

イスラエルへの回復預言です。

モーセの時代「乳と蜜の流れる約束の地」とうたわれたイスラエルの地は、多くの戦乱と人間の持つ罪の結果、多くが荒れ地となってしまいました。現在、耕作地は国土の24%で砂漠が60%を超えています。

しかし、点滴灌漑用法により、世界で唯一、イスラエルは緑化が増えているのです。イザヤの預言が成就し、荒野と砂漠が美しい緑に変化しているのです。

今、悲しい戦争により、美しく世界の穀倉地帯と呼ばれているウクライナの地が、荒廃しています。町も、自然も、何より人々の命が奪われ、心と体が傷つき、すべてが荒廃しています。

しかし、神は平和の神、回復の神です。

ウクライナの平和と人々のために、祈らずにはおれません。

あの国土地帯と言われる、ウクライナの大地に平和と、豊かな実りが与えられますように、主イエス・キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。


「神に受け入れられる信仰441」3月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰19」です。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。

しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。

神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。」詩篇19:1-4

私の大好きな詩篇の一節です。春の訪れの足音がまるで聞こえるような日々の毎日です。

いち日ごとに、春を感じさせ、神の創造の御業を思い起こさせてくださいます。

このようななかで、ひとつだけ嫌なことがありますが、それは花粉症です。

多くの日本人が毎年、頭を痛め、苦労しています。

戦後、戦禍の復興のためにと、多くの杉の木を植え、役立つようにとした結果の人災であるかもしれません。

人間は、良かれと思ってしたことが、地球温暖化を招き、コントロール不可能な原発を生み、果ては、人の命を奪う戦争まで引き起こしています。

イエスが人の必要のために語られたみことばです。

「だから、神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」マタイ6:33

これらのものとは、人間の生活に絶対必要な衣食住のことです。

ここでイエスは、第一に必要なことを第一にしなさいと言われました。優先順位を間違えると、多くの問題が生じます。

二つのことが大切です。一つ目は、神がご支配統治する国、領域、考え、生活です。

もう一つは、神の義すなわち、神との正しい関係です。

人間が罪のために失った神との正しい関係を、キリストが十字架で新しく造り変えてくださいました。

「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

キリスト・イエスと共に歩む日々は、花粉症でも最高です。


「神に受け入れられる信仰440」3月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰18」です。

愛知県の公立高校の合否発表が、今日成されます。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:13

この世での入学や入社の合否は能力です。

しかし、天の御国に入るのは神の恵みに対する信仰です。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10

キリストは、罪のために十字架の道を歩み、滅びの門を通っていたすべての人に救いの門を開いてくださいました。天の御国にまさる幸い、祝福はありません。

それは、現生における神の幸いと、永遠における幸いです。

最後に、イエス・キリストのおことばです。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6


「神に受け入れられる信仰439」3月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰17」です。

昨日、福島でマグニチュード7.4の大きな地震がありました。イエスは世の終わりには各地で地震が起こり、国は国に民族は民族に敵対し、戦争のうわさを聞くと言われました。

地球温暖化をはじめとする異常気象、感染症の疫病、飢えと飢饉などまさにイエスの預言を目の当たりに見るような今日この頃です。

しかし、聖書のみ言葉は、次のようにも語っています。

”「わたしは、もう一度、地だけではなく、天をも揺り動かす。」この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

ういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。・・・。” ヘブル12:26-28

この世のものはすべて消え去ります。

しかし、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」ヘブル13:8

永遠に変わることのない、御言葉とキリストを見つめ、信仰の歩みをする者は幸いです。


「神に受け入れられる信仰438」3月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰16」です。

3月は、別れの季節、4月は出会いの季節と言われています。

3月の初めに、敬愛するベテルリバーサイドチャペルの原勝子先生が天に召されたことをブログで証ししました。

キリストの命を受けた者との、別れは一時的な別れです。しかし、天においてまた出会うという希望が与えられているということは、何と幸いなことでしょう。

今年も、一月後の4月17日にイースターを迎えますが、この日はキリストの復活を祝う日です。

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ11:25-26

私は1968年(昭和43年)4月14日のイースターに洗礼を受け、イエス・キリストを信じました。春の息吹を感じる季節になると、復活の命の恵みに唯々感謝の心でいっぱいです。

肉体の命は、この世での一時的ないのちですが、神の下さるいのちは永遠のいのちです。

命より大切なものは有りませんが、最も大切な命はキリストを通して与えられる神のいのち、即ち永遠の命です。

永遠の出会いを持つ者は、さいわいです。キリストの中に、この幸いないのちがあるのです。


「神に受け入れられる信仰437」3月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰15」です。

教会ブログが、ホームページ自体のシステム障害により、しばらく開くことができませんでした。すべての人間は、罪と言うシステム障害により、神との交わりや祝福が途絶えてしまいました。

罪とはハマルティアと言う、ギリシャ語の言葉で、的外れと言う意味です。

どんな高性能の電気製品や、電子機器でも、元の電源から外れていたならば、役に立ちません。イエス・キリストは神と人との仲保者です。

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」Ⅰテモテ2:5

イエス・キリストは、神でありながら、人となられました。人の持つすべての苦しみ、悲しみ、痛みなどを体験されながら、罪のないお方が罪の身代わりとして十字架にかけられたのです。このイエス・キリストを主として救い主として信じるなら、すべての人が救われるのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ10:9-10

人生における最大のシステム障害である、罪からの救いがキリストにより与えられるのです。

愛と真実に満ちた神様とつながる、人生は感謝と喜び、勝利と祝福の人生です。

イエスの祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰436」3月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰14」です。

私の友人の李牧師からいただいた便りの中に「いのちが咲く春」と言う韓国のゴスペルソングの素敵な詩が送られてきましたので紹介します。

「父なるお方 主よあなただけ こころ奥深く あなたはいます 信じる方は 主よあなただけ 涙の中で出会った 主の姿 愛するお方は 主よあなただけ 小さな胸に 熱き血潮が

頼れる方は 主よあなただけ 主に従う者 主が見守られ 主よありがとう わが罪赦され

今は主にあって いつでも歩む ああしあわせ 父に愛され この世すべてを 愛して生きる」

「目の光は心を喜ばせ、良い知らせは人を健やかにする。」箴言15:30

良き友からの良き便りは、励ましや元気を与えてくれます。

聖書(バイブル)は、神から与えられたラブレターとある有名な偉人が語りました。

聖書の中には、あなたに必要なメッセージ、教訓、励ましや慰め、力づけなど、さまざまな神の愛が詰まっています。ミニバイブルと言われる、有名な神のことばです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16


「神に受け入れられる信仰435」3月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰13」です。

人類の歴史は、戦争の歴史と言っても過言ではありません。

個人であっても、国家であっても、自分の立場だけを強調するならば、必ず争いが生じます。

今、ウクライナで起きている戦争は、ロシアいやプーチンと言う一人の人物の間違った考えによるものです。たった一人やその周りにいる数名の人の間違いが、多くの人の命を奪っています。

主に祈らずにはおれません。

「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」イザヤ11:6-9

この預言は、千年王国での全き平和を現わしていると言われています。

主の愛と正しい権威を知ることが、この地を満たすように祈るばかりです。

マラナタ!主よ来たりませ!


「神に受け入れられる信仰434」3月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰12」です。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ6:12(口語訳聖書)

今、ウクライナで起きている侵略戦争の背後には、サタンである悪しき霊が、働いているとしか考えられません。無抵抗の子供や女性、老人などの民間人を無差別に殺戮しているからです。

良い羊飼いであるイエスは、サタンを盗人と表現しました。そして神とサタンの働きの違いを語られました。

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのため来たのわたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」ヨハネ10:10-11

このみ言葉が示すように、神なる良い牧者は、いのちを与え、盗人なる悪魔は盗み、殺し、滅ぼすのです。

今、現在のプーチン大統領は、悪しきサタンの霊である、殺人鬼です。人の命よりも、自分の野望、考えがまさっています。

クリスチャン、教会の成す大切な働きの一つは、サタンを縛り、人々の命が守られるようとりなしの祈りをささげることです。

「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。なんでもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」マタイ16:19


「神に受け入れられる信仰433」3月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰11」です。

反戦詩の一つにもあげられる宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を紹介します。

この詩のモデルになったのは斎藤宗次郎と言う、一人のキリスト者であったと言われていますが、詳細は定かではありません。

しかし、宮沢賢治との交わりの中で、賢治の生き方に影響を与えたのは確かです。

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク

決シテイカラズ イツモシヅカニワラッテイル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニイテ 

東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ 

ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ 

ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイウヒトニ ワタシハナリタイ」

世界の平和とウクライナの平和をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰432」3月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰10」です。

人を動機づけるモチベーションに様々のものがあります。

経済的すなわち、お金により重きを置く人。名誉や地位に動かされるケース、人々からの称賛、憎しみや怒りが動機づける場合もあります。

最も健全で強く、かつ多くの人に祝福を与え、神に喜ばれるものは愛です。

聖書のみ言葉です。

「たとえ、私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義と知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」Ⅰコリント13:1-3

使徒パウロの究極の言葉です。

彼はここで、なんども繰り返して「愛がなければ」と語っています。異言、預言、あらゆる奥義や知識、山を動かすほどの完全な信仰、施し、肉体の命、これらはすべて良きものであり、人の持つ最高のものですが、愛がそこになければ無に等しいとさえ述べています。

昨日、アガペーの愛を取り上げましたが、今ほど、キリストの愛が必要な時代はありません。どんな理由でも、愛のない力の支配は争いを生み、一方的に自分の事しか考えません。ウクライナに神の愛が望まれることを祈るのみです。


「神に受け入れられる信仰431」3月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰9」です。

聖書で愛を表現する言葉が4つあると言われています。

エロス(主に男女間の愛)、フィレーオー(主に友情の愛)、ストルゲー(親の愛で特に母親の愛)アガペー(神の愛)です。

では、アガペーの愛とはどのようなものでしょうか。

第一に無条件の愛です。人の持つ愛には、条件があります。家族だから、恋人だから、良くしていただいたからなど、さまざまの条件です。しかし、アガペーの愛は、無条件での愛なのです。

第二に、不変で永遠の愛です。人間の愛は、有限です。かわいさ余って憎さ百倍とか、仏の顔も三度までとか言われます。聖書のお言葉です。

”主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、私はあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」エレミヤ31::3

第三にアガペーの愛は、犠牲の伴う愛です。

イエス・キリストは罪人なる私たちのために十字架で命をささげ血潮を流し、すべてを捨ててくださいました。

有名な愛の言葉です。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません。」Ⅰコリント13:4-8

これらの愛はすべてアガペーの愛が記されています。

今、ウクライナにおいて愛と真逆なことが行われています。ウクライナのために祈りましょう。マザーテレサは、愛の反対語は憎しみではなく無関心ですと言われました。

小さな祈り、愛でも集められ、積まれていくとき大きな愛のうねりとなり、状況を変えていきます。神は生きて働いておられます。十字架上のイエス・キリストのとりなしの祈りです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ウクライナに平和を与えてください。人々の命を守ってください。アーメン。


「神に受け入れられる信仰430」3月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰8」です。

昨日に続き、ベテルリバーサイドチャペルの原勝子先生の証しです。

勝子先生の召天式に、ユーチューブでの参加でしたが、とても感動を受けました。

真の証人は人の魂を救う。」と聖書にありますが、まさにキリストの良き証人としての生涯でした。

夫である、原正幸先生と共に、「キリストの愛に生きる」をモットーとしての82年間の生涯でした。。正幸先生は、2年前の3月に天に凱旋され、勝子先生も同じ3月に共に82才で召されました。

神と多くの人々に仕え、家族を愛し、教会員に親しまれて走るべき行程を走りぬきました。今、天において「良くやった。良き忠実な僕よと。」主イエス・キリストからお褒めの言葉をいただいていることと、確信します。10年前に血液がんの宣告をされ、ご家族の証しでは、余命半年と言われていたそうです。

しかし、10年間の闘病生活にもかかわらず、いつも笑顔を絶やさず、信徒を励まし続けていました。このような愛と信仰の先人にならい、信仰の模範として生きていく決心を新たにされた、ひと時でした。

このブログを見てくださる全ての方の上に、神を心に迎え入れて生きる人生のすばらしさを知っていただきたく、お祈りするものです。


「神に受け入れられる信仰429」3月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰7」です。

私たち日本ネクストタウンズミッション、ベテルリバーサイドチャペル(旧津福音教会)の原勝子先生が天に召されました。

今、ユーチューブで前夜式を見ながらこのブログを書いています。

勝子先生は夫である故正幸先生とともに、主のしもべとしてキリストに天に凱旋されました。

使徒パウロの告白のみことばです。

「私は勇敢に戦い、走るべきべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれでも授けてくださるのです。」Ⅱテモテ4:7-8

ユーチューブで語られているみことばです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださいました。」Ⅰコリント15:55-57

原勝子先生の信仰を模範として、キリストに従い続ける者になりたいです。

ご遺族、御教会の上に主の豊かな慰めと励ましをお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰428」3月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰6」です。

「わたしには夢がある」マルチン・ルーサー・キング牧師の有名な演説の言葉です。

「すべての人間は平等である。」という理念のもとになされた自由と民主主義の根幹の考えです。今ウクライナでなされている、ロシアの侵略はこの考えとは真逆の行為です。

このキング牧師の演説の一部を紹介します。

 

「私には夢がある。それはこの国(世界)が立ち上がり、『すべての人間は平等に造られているということは、自明の真実であると考える。』

と言うこの国の信条を、真の意味で実現させるという意味である。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の上で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者たちの息子たちが、兄弟として同じテーブルに着くという夢である

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピーでさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の子供たちが、肌の色によってではなく、そのものによって、評価されるという国に住むという夢である。・・

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこしたところは平らにならされ、曲がった道はまっすぐにされ、そして、神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。・・・。」

今の時代こそ、キング牧師のような、考え、イエス・キリストの愛の福音が必要です。ウクライナの戦争終結と、世界の平和のために祈らずにはおれません。


「神に受け入れられる信仰427」3月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰5」です。

キリスト者の有名な祈りの三回目は、以前にも紹介した「ニーバーの祈り」です。

ラインホールド・ニーバーは、アメリカの牧師で(1892-1971)特に1930ー40年代に活躍しました。

神よ。変えるべきものであることについて、それを変える勇気を私たちに与えてください。

変えることの出来ないものについては、それを受け容れる冷静さを私たちに与えてください。

そして、変えるべきものと変えることの出来ないものとを、識別する知恵を私たちに与えてください。」

ウクライナを始め、全世界で、戦火が拡大しています。戦争は自然現象ではなく、人災です。変えなくてはなりません。神への恐れと、人への愛がなければ戦争は止めさせることができないのです。今こそ、キリストの愛が必要です。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしが、あなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

引き続きウクライナのために祈りましょう。戦争の即時停止と、不拡大のために。人々の命が守られるように。絶対に核兵器が用いられないように。私たちの祈りを主は聞かれます。


「神に受け入れられる信仰426」3月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰4」です。

昨日に続き、今のウクライナでの愚かな戦争を憂いて、キリスト者の有名な祈りを紹介します。

「国と、人種と階級を分裂させる憎しみを、父よ、赦したまえ。

自分に属さぬものを所有する国と個人の欲望を、父よ、赦したまえ。

人間の労苦を悪用し、地球を荒廃させる貪欲を、父よ、赦したまえ。

家を失った者、他国から逃れて来た者の苦境に関する無関心を、父よ、赦したまえ。

男女を問わず、人間の体をいまわしい目的のために用いようとする欲望を、父よ、赦したまえ。

自分により頼み、神に信頼することを望まない傲慢を、父よ、赦したまえ。」

(コウ”ェントリー寺院の祈り)イギリス・イングランドにあるキリスト教寺院です。

 

この祈りは第二次世界大戦中に空襲を受けた、コウ”ェントリーの教会が、戦後新しい教会堂を建て直し、かつての敵国との和解のために、毎日正午にささげられている祈りでした。

『祈りの花束 聖書から現代までのキリスト者の祈り参照』

ウクライナの救いと守り、世界平和のために、共に祈りましょう。


「神に受け入れられる信仰425」2月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰3」です。

本日もウクライナでの悲しい戦争の解決をお祈りします。

このような中でこそ、切に聖フランシスコの平和の祈り」の必要と重要性を覚えます。

「主よ。わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

憎しみのあるところにを、いさかいのあるところに、赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇にを、悲しみのあるところに、喜びを、もたらすものとしてください。

 

慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。アッシジの聖フランシスコ

全世界に「平和の祈り」が、満ち溢れますようにお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰424」2月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰2」です。

本当の愛は奪うものではなく、与えるものです。聖書66巻を一つの聖句であらわすのに最もふさわしいみ言葉、ミニバイブルと呼ばれているみ言葉です。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

ひとり子を与えたとは、イエス・キリストを十字架につけて、そのいのちを捨てたほどに、世を人々を愛されたということです。

しかし、今悲しいことにウクライナで、これと真逆のことが行われています。他国の領土と人々の命を奪い、武力で侵略が行われています。今、クリスチャンがなすべきことは、神に祈ることであり、戦争反対の声を上げることです。小さな愛の力でも、集められるとき、大きな愛のうねりとなります。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」ヨハネ15:13(口語訳聖書)

キリストの十字架の愛が世界を支配しますように祈りましょう。


「神に受け入れられる信仰423」2月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「愛の信仰」です。

今、ウクライナで恐ろしい悲劇が起こりました。ロシアによる侵略戦争です。

ある方は、言いました。最大の罪は戦争であると。ひとりの人の決断により多くの人の命が奪われてよいのでしょうか。聖書のみ言葉です。

「耳のある者は聞くがよい。とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに聖徒たちの忍耐と信仰がある。」ヨハネの黙示録13:9-10

ウクライナの救いと平和のために祈りましょう。何千、何万、何十万と言う人々の命が一瞬にして奪われてしまうからです。そして、この行為が全世界に飛び火しないように祈りましょう。

私たちも、自分だけ、自分の国の事だけでなく、互いのために小さなことでも、すべての事を、キリストの愛を模範として生きる者となりましょう。

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13:34

「主よ。世界を守ってください。キリストの愛が与えられますように。主よ来たりませ。マラナタ。」私の祈りです。


「神に受け入れられる信仰422」2月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰29」です。

神はあわれみに富んだ御方です。特に苦しんでいる者、飢えた者、病の人々などに対する強い愛の現われが、神の持たれるあわれみの心です。

「イエスは船から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、多くの病気を直された。」マタイ14:14

ここで使われているあわれみは、ギリシャ語のスプランクノンと言うことばで、強い哀悼を現わし、内臓と言う意味もあり、はらわたがちぎれるような深い愛情です。

「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また群衆を見てかわいそうに思われた。」マタイ9:35-36

ここでも同じようにかわいそうに思われた言葉がスプランクノンです。

 

イザヤのメシア預言です。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。・・・まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:2-5

イエスは病の苦しみや痛みを知り、同じ立場に立ちその病を引き受けて十字架で代価を払われたのです。イエス・キリストのあわれみを受ける者は幸いです。


「神に受け入れられる信仰421」2月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰28」です。

癒しにとても重要なことは、御言葉に対する信仰の確信です。

ローマの百人隊長の信仰がその良き模範です。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私自身も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』といえば、そのとおりにいたします。マタイ8:6-9

この百卒長の言葉を聞いてイエスは驚かれ、「あなたの信じたとおりになれ。」と言われ、ちょうどその時しもべはいやされました。

イエスとイエスの言葉にはすべてにまさる権威と力があります。病をも癒す権威です

聖書には3万以上の神の約束があると言われています。あなたの人生の上に、神のみ言葉に対する信仰が与えられ、神の祝福が注がれますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰420」2月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰27」です。

神の救いや癒しの御業が成されるのは、神ご自身の一方的なあわれみや御心の場合もありますが、多くの場合神と人からの二つの条件が合わされた場合です。

神からの恵みと人の信仰です。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」エペソ2:8 

聖書の中に十二年間も、長血という病で苦しんでいた女がいました。この女性の持った「信仰が、あなたを救ったのです。」とイエスは言われました。(マルコ5:25-34参照)

彼女の信仰は、第一にイエスの衣にさわることができれば、必ず直ると、いつも考え、告白していたことです。心の思いと口の言葉が、その人の人生を決定するのです。

第二に、彼女は、思いや告白を行動に移しました。ある方が言いました。信仰は信行である。すなわち行いのない信仰は、死んだものです、真の信仰には行動が伴うのです。

第三に、彼女は信仰を集中したのです。一球入魂と言うことばがありますが、思いを込め集中したときに神が御手を動かされたのです。

神は恵みに満ち溢れたお方です。このお方に認められ神からの祝福を受け取られますことをお祈りしています。

”そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」”マルコ5:34


「神に受け入れられる信仰419」2月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰26」です。

体が病むと霊や心も影響を受け、霊や心が病むと体にも影響を及ぼすと、前回述べました。

とても面白い、例えのお話です。

「三人の人が岩壁を登っていました。感情さん、信仰さん、み言葉さんの三人で、互いにザイル(岩登りなどで使うクライミングロープのこと)で、体を結んでいました。感情さんが、足を滑らせ、信仰さんが受け止めましたが、急な斜面での落下の勢いに、耐えられず落ちそうになりましたが、み言葉さんがしっかりと受け止め、救われました。」

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」ヨハネ16:33

神のみ言葉は、変わることのない永遠の事実です。人生における諸問題や病は、一時的な現実の事実です。どんなときにも変わることのない神の約束のみ言葉に歩む人は幸いです。

イエス・キリストはみ言葉ご自身です。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでもおなじです。」ヘブル13:8


「神に受け入れられる信仰418」2月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰26」です。

本日のリビングライフのみことば取り上げ個所です。

 

”すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。”ルカ13:11-13

ここに、病の霊とかかれています。すべての病がそうではありませんが、体が病むと心と霊にも影響を与え、霊や心が病むと体にも影響を及ぼします。

この女性は、霊も心も体も病で苦しんでいたようです。

しかし、イエスはこの女をあわれみ、病の霊から解放してくださいました。

イエス・キリストはメシア(解放者)です。メシアのミニストリーは救いと癒しと解放です。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」イザヤ61:1

このメシア預言は、キリストにより成就しました。

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる種類の病気、あらゆる種類のわずらいを直された。」マタイ4:23

今の時代でも、イエス・キリストは変わることなくメシアです。


「神に受け入れられる信仰417」2月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰25」です。

旧約聖書レビ記には、礼拝に対する規定が、事細かく記されています。神を礼拝するための根本的条件は、きよめです。

当時らい病(ハンセン病)は罪を現わし、らいの病を持つ者は礼拝することができませんでした。しかし、真の神は癒し主であり、きよめ主です。

「らい病人が清められるときのおしえは次の通りでなければならない。その者は祭司のところに連れてくる。」レビ記14:2

では、何によってきよめがなされるのでしょうか。鳥や動物が贖いのためにほふられました。

レビ記では、二羽の小鳥が用いられました。

「祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるように命じる。生きている小鳥を、杉の木と緋色のより糸とヒソプといっしょにとり、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。」レビ記14:5-7

 

このおしえは、イエスキリストの十字架と復活の予表です。らい病(ここでは罪の象徴)を、きよめるために、動物(ここでは小鳥)の血が流されたのです。

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」レビ記17:11

動物の血ではなく、神の子イエス・キリストの血がすべての罪をきよめるのです。

あなたの上にイエス・キリストの救いときよめが、与えられますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰416」2月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰24」です。

新約聖書における祝祷は次の通りで、今日、多くの教会で用いられています。

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたとともにありますように。」Ⅱコリント13:13

旧約聖書での祝祷は、民数記6:24-26です。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」

 

主からの守りと癒しは、主が御顔を向けてくださることの証しです。

今日のコロナ禍でも、主が御顔を向けてくださるならば、すべての災いから守られるのです。

モーセにより、出エジプトしたイスラエルを神はすべての災いから守り、約束の地であるカナンへと守り導かれました。

「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」申命記29:5

真の神は恵みと愛に富んだ祝福の神です。

あなたの上に主が御顔を照らし、御顔を向けられますようにお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰415」2月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰23」です。

黙示録に、7つの教会が記されています。これは、各時代の教会を現わし、またすべての教会の姿の象徴でもあります。ラオデキヤ教会へのみ言葉です。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者になるために、火で精錬された金をわたしから、買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」ヨハネ黙示録3:18

目は体の明かりであり、目が見えないことは,一級障がいに該当いたします。

肉体の目が見えていても、心の目、霊の目が閉ざされているなら、神様の目から見るなら盲人です。では、霊の目を閉ざしているものは、何でしょうか。聖書は、罪すなわち神から離れた的外れの生き方であると教えています。

罪は、人間の最大の病です。しかし、イエス・キリストの十字架と復活の福音が、すべてを癒す力です。

イエスは言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

目に塗る目薬とは、イエス・キリストです。


「神に受け入れられる信仰414」2月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰22」です。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、わたしたちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によっていやされた。」イザヤ53:3-5

最も有名なキリストへの十字架預言です。

イザヤは、キリスト誕生以前、約700年前の預言者です。

まさに、目の前に十字架上のキリストを見ているかのように、描写しています。

リストは、罪と咎、病と痛み、人類が受けるすべての苦しみを身代わりに受けられたのです。そして、その懲らしめが救いと赦し、打ち傷が病と病のもたらす心と体の痛みと苦しみをすべて癒されるのです。

あなたの人生に、十字架の救いと恵みが与えらえますことを、心よりお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰413」2月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰21」です。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。わたしはそれであなたのおきてを学びました。」詩篇119:71

ダビデの人生には、多くの苦難がありました。人生に苦難はつきものです。

仏教用語で「生老病死」と言うことばがあることを以前に紹介しました。生きること自体が苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死を迎える苦しみです。

ダビデは、苦しみに会ったことは、幸いであったと告白しています。何故、このような告白ができたのでしょうか。

第一に苦しまなければ見えない世界が、苦しみを通して見えたことです。病自体は、喜びではありませんが、病を通して、健康のありがたさや、人の痛みを少しでも理解できることなどです。

第二に、ダビデは苦難を通して神に向かい、神を体験したことです。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」詩篇23:4

第三にメシア信仰に立っていたダビデは、やがて来る救い主の復活を通して、天の御国を見ていたのです。

「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめる時、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」詩篇17:15

ダビデの信仰に倣う者になりたいです。


「神に受け入れられる信仰412」2月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰20」です

日本人の平均寿命は、平成22年(2010年)統計で、男性79.55歳、女性86.30歳ですが、現在はもっと伸びていることでしょう。

健康寿命は、同じ年で男性70.43歳、女性73.62歳とのことです。

健康寿命とは、日常生活に制限や支障がない状態ですが、男性で9.13年、女性で12・68年と平均寿命とに差があります。聖書のお言葉です。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩篇139:23-24

体の健康診断のため、人間ドックに入る方が多数おられます。しかし、それと同様に、いや、それ以上に大切なのが心の健康チェックです。

ダビデは、神の前に出て、自らの心を探りました。

あなたの心はいかがでしょうか。思い煩いがありますか。傷ついた心がありますか。この世は、有限であり一時的です。しかし、人間の霊魂は永遠です。イエス・キリストは霊と心と体の救い主、いや主です。

どんな悩みも、傷も、重荷も取り除いてくださいます。十字架上で、すべてが完了した(テテレスタイ)と救いの宣言を成されたのです。

是非、イエス・キリストを信じ、救われた幸いな健康人生を、キリストと共に歩んでください。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰411」2月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰19」です。

昨日は、マラ(苦い)と言う泉に一本の木がはいった時に水が清くなり、甘い水となったお話でした。本日は、神殿の敷居の下から流れ出た水が死海に入った時のお話です。

「この川の流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」エゼキエル47:9

これは終わりの時代に、起こる教会への回復の預言です。

生ける水とは、聖書の中に何回も表現されている御霊のことです。イエスも言われました。

”さて、祭りの終わりの大事な日に、イエスは立って、大声で言われた。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。”ヨハネ7:37-39

聖霊の満たしの中には、あらゆる祝福が存在します。救い、癒し、生長、回復、実り、繁栄など、人生におけるすべての必要があり、豊かに実を結ぶのです。

神を求める人々が、生ける水を飲む人生となりますようにお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰410」2月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰18」です。

心を健全に守ることは、体の健康にとても重要です。今回もこのことについて語ります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4:23

出エジプトしたイスラエルは、荒野の旅の中で水を求めました。

”彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセにつぶやいて「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると水は甘くなった。”出エジプト15:23-25

 

人間の心は、罪に満ちています。その結果、マラの水のように苦くなり、憎しみ、怒り、不満、恐れ、赦さない心など、多くの汚れが存在し、体や人間関係まで病んでしまいました。

しかし、一本の木が投げ入れられたとき、水が甘くなりました。一本の木とは、イエス・キリストの十字架の象徴です。

十字架は、すべての人の罪のために、身代わりとなられたイエス・キリストの救いです。十字架は、愛、喜び、平安、感謝、赦しなどを生み出し、霊と心と体に救いと癒しを与えてくださいます。

主がモーセに語られたお言葉です。

”そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことどとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」出エジプト15:26

神(キリスト)のことばと霊は、健康の源です。あなたの上に神の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰408」2月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰17」です。

昨日に続き、健康と言葉(考え)の関係の大切さです。

「いのちを与えるのは御霊です。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのです。」ヨハネ6:33 

イエス・キリストは私が話した言葉(考え、思想)が霊であり命ですと語られました。

人を生かすものは霊です。霊が弱ると心と体に弱さが生じ、霊が強く健全になると、心や体にも良い影響を及ぼします。

「神の言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヘブル4:12

あなたのすべて(過去、現在、将来)の考えが、イエス・キリストの願う言葉で満ち溢れますことをお祈りしています。まず健康に必要なのは、治療や手術ではなく、保健だからです。


「神に受け入れられる信仰407」2月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰16」です。

病は肉体だけの問題では、ありません。体が病むと心に影響し、心が病むと体に影響します。

その二つに大きな影響を及ぼすのが、思いと言葉です

ダビデは次のように述べています。

「どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。」詩篇19:14(口語訳聖書)

人間は考えるであると、パスカルは表現しました。なぜなら、考えが行動を生み出し、行動が習慣を生み、習慣はその人の人生を決め、やがては永遠に至るのです。

ことばは大きな船を方向付ける舵のようだみ言葉が語っています。ヤコブ3:4(参照)

 

健全な言葉、健全な考えが、健全な霊と心と体を生み出します。あなたの口の言葉と心の思いを、み言葉と御霊で満たしてください。

「わが子よ。わたしの言葉を心にとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに守れ。それは、これを得る者の命であり、またその全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」箴言4:21-23


「神に受け入れられる信仰406」2月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰15」です。

新型コロナ感染が一向に収まる気配がありません。アルファ株から始まり、ベータ―株、ガンマ株、デルタ株、そして現在はオミクロン株が全世界に流行しています。

日本にも、1日の感染者数が10万人にも及ぼうとしています。しかし、このような中でも、神の守りの約束は真実です。詩篇91篇は次のように述べています。

”いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。わたしは主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。” 詩篇91:1-3

これは、神を信ずる者が絶対にコロナ感染しないという意味ではありません。しかし、どのような事態が起ころうとも、神は守られるという約束です。

コロナ感染より恐ろしいのは、罪と言う疫病です。肉体の病は、一時的であり、この世だけです。しかし、罪は永遠の滅びをもたらします。

イエス・キリストは霊と心と体の救い主、いやし主です。

「神は、、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

あなたの上に主の完全な守りと救いが与えられますよう、主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰405」2月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰14」です。

神はすべての者が、健やかであることを願っています。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネの手紙 2節

たましいが幸いであるように、幸いであり、健やかであると語っています。これは神に信頼し、完全に従順することの意味です。

旧約聖書にナアマン将軍の癒しが取り上げられています。

アラム(現在のシリヤ)の将軍ナアマンは勇士であったがらい病に(ハンセン病)かかっていました。イスラエルより、捕らえた若い娘が、もしご主人様が預言者エリシャの所に行くならばらい病はきっと癒されるでしょうと告げました。

エリシャの所に出かけたナアマンにエリシャは使いを出し「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」これを聞いたナアマンは怒り、最初は受け入れませんでした。しかし、賢いしもべの助言により、エリシャの言葉に従いました。

「わが父よ。あの預言者が、とてもむずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは、元通りになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。・・・ナアマンは「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」Ⅱ列王記5章参照・略

 

癒しは、真の神のことばを信じて従うときになされます。

イエス・キリストも次のように語られました。

「また、預言者エリシャのときに、イスラエルにはらい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」ルカ4:27

聖書の癒しのみ言葉をつかんで、ナアマンのように信じてください。神の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰404」2月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰13」です。

神による癒しは、神からの祝福です。では、癒しの祝福はどこに与えられるのでしょうか。それは、信仰による一致のある所に注がれます。

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似いる。主がそこにいのちの祝福を命じられたからである。」詩篇133:1-3

イエスがカペナウムの町に来られたときのお話です。家中に人がいっぱいになり、外にまであふれるほどでした。

”そのとき、一人の中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦された。」と言われ、罪も病も癒されました。”マルコ2:1-12参照

 

ここでイエスは、中風の人も含めた、「彼らの信仰を見て」、罪の赦しと病の癒しを成されたのです。信仰の足し算です。仮に10の信仰で癒しがなされるとするならば、一人の信仰が2・5でも、五人そろえば10になります。神は信仰の一致を祝福されます。

あなたの信仰の友と、心を合わせ病の人の救いと癒しのために祈り、行動してください。

神の栄光が現わされますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰403」2月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰12」です。

癒しの信仰と同時に必要なのは、霊的解放です。

イザヤのメシア預言をもう一度取り上げます。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、」イザヤ61:1

ここで解放と釈放と言うことばが使われていますが、より強い者から解き放つこと自由にする意味です。

人間は霊と心と体が健康であるときに、幸いな者となります。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」Ⅰテサロニケ5:23

霊が悪霊に捕らえられた人を、イエスは解放されました。福音書の中には、その実例が多く記されています。解放と自由は強い者と表現された、サタン、悪霊から解き放されることの意味です。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家に入って家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を奪ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することができるのです。」マタイ12:28-29

イエスは略奪と言うとても強い言葉で、悪霊からの解放を表現しました。自分でどうすることもできないまま罪と悪の霊に縛られている状態では、もっと強い人イエス・キリストの解放が必要です。すべてが悪霊では、もちろんありませんが悪霊の存在も事実です。

今日、心を痛めるニュースが数多く起こっていますが、悪霊の働きも多くあります。

イエスは大宣教命令で信じる者にはしるしが伴いますと言われました。

「・・・わたしの名によって悪霊を追い出し・・・病人に手を置けば病人は癒されます。・・・そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、み言葉を確かなものとされた。」マルコ16:17-20参照 

イエス・キリストは今も信じる者とともに働いておられます。アーメン。


「神に受け入れられる信仰402」2月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰11」です。

昨日は、み言葉を遣わしての癒しでしたが、今回は手を置く按手による癒しです。

按手には多くの意味と祝福があります。祝福の按手、任職の油注ぎの按手、権威の賦与の按手、解放と癒しの按手、悪霊追い出しの按手など様々で

癒しに対する按手は、イエスが多く用いられました。

「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人を連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」ルカ4:40

 

”さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病(ハンセン病)の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。するとすぐにそのらい病が消えた。”ルカ5:12-13

当時、らい病は汚れた不治の病として恐れられ、病が伝染すると信じられ、手を置くことなど考えられませんでした。

しかし、イエスは「わたしの心だ。清くなれ。」と手を体に触れ按手の祈りをささげたのです。按手は、神の癒しの権威と、愛の行為です。

イエスは、大宣教命令の中で、弟子たちに言われました。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けばいやされます。」マルコ16:17-18

按手は神の力と愛の伝達です。あなたの上に聖霊による按手の力が注がれますことをお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰401」1月31日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰10」です。

預言者イザヤは、メシアなるキリストの癒しの働きを預言しています。

”夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」マタイ8:16-17

 

イエスは、いろいろな方法で癒しを成されました。病の人に手を当てた按手、イエスの衣にさわりいやされた女性、目に唾で泥を塗り、シロアムの池に行くよう命じた盲人など様々です。

最も多く用いられた癒しは、按手とみ言葉の宣言です。

本日は、み言葉に対する信仰の大切さです。み言葉は神ご自身です。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ヨハネ1:14

 

神の約束のみ言葉を信じることが、信仰です。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」イザヤ53:4-5

あなたへの癒しのみ言葉です。


「神に受け入れられる信仰400」1月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰9」です。

赦しと癒しが双子のように、これらのある所には、愛と喜びが生み出されます。

ペテロとヨハネにより美しの門で生まれながらの、足の利かない男が癒された時、愛と喜びが生まれました。

ペテロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして、歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。” 使徒3:6-9

 

癒された男の喜びと神への感謝、そして神に対する愛が満ち溢れている光景が目に浮かんできます。神からの癒しと救いの背後に、キリストの十字架の愛があるのです。

この愛に触れた人は、癒しの喜びと神への愛に満たされるのです。

イエス・キリストは、救い主であり癒し主です。霊と心と体、過去、現在、未来にわたる救い主、いやし主です。最後にみ言葉を送ります。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネ2節


「神に受け入れられる信仰399」1月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰8」です。

癒しと赦しは、双子のように互いに係わりがあります。

癒しのある所には、赦しがあり、赦しのある所には癒しが生まれます。

では、赦しはどこから与えられるのでしょうか。

有名な主の祈りの一節です。「・・・私たちの負い目(罪)をお赦しください。私たちも、私たちに負い目(罪)のある人たちを赦しました。・・・もし人の罪を赦すなら、あなたがたの父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあながたの罪をお赦しになりません。」マタイ6:9-15参照

赦し合うところに人間関係の癒しが生まれます。互いの関係の赦しや癒しは、多くの場合、肉体の癒しにも影響を与えます。

では、赦しはどこから何から生まれるのでしょう。人間はすべてが罪を持った存在です。

神から離れた的外れ(ハマルティア)が罪です。キリストはこの罪から救うために十字架で代価として、罪のない命を捨てて、救いと赦しを与えてくださいました。

まず神との平和を築き、赦しを受けることです。赦された者は赦すことができます。1万タラントの負債を赦された人は、100デナリの負債を赦せるのです。マタイ18:21-35参照

そして、すべての裁きは神に委ねるのです。

「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」1ペテロ2:21-23

すべての正しい審判は、神の手の中にあります。神は侮られるような御方ではありません。

信仰による祈りは、病んでいる人を救います(癒します)。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪をおかしていたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒されるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、くと大きな力があります。」ヤコブ5:15-16

互いの赦しは、癒しをもたらし、互いの癒しは赦しをもたらすのです。


「神に受け入れられる信仰398」1月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰7」です。

聖書の中に、子供が生まれず苦しんでいた女性の話が多く記されています。

本日は、ハンナ(恩恵の意味)の信仰の祈りがサムエル(神は聞かれるの意味)を生み出したお話です。

エルカナの妻ハンナには子供がなかった。

ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。。そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための悩みを顧みて、わたしを心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、わたしはその子の一生を主におささげします。・・・Ⅰサムエル1:10-11

 

”日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。そして「私がこの子を主に願ったから。」と言って、その子の名をサムエルと呼んだ。”Ⅰサムエル1:20

 

主の名によって祈るときに、サムエルの名前の通り、神は祈りを聞かれ、答えてくださいます。

キリストは言われました。「またわたしは、あなたがわたしの名によって求めることは何でもそれをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」ヨハネ14:13-14

あなたの必要を、キリストの名によって求めてみてください。

神の恵みが訪れることをお祈りいたします。その時必要なのは、信仰です。

神からの恵みと、人の信仰が癒しを生み、祝福を生み出すのです。


「神に受け入れられる信仰397」1月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰6」です。

イエス・キリストは多くの病人を癒されましたが、その中には、盲人の癒しが沢山記されています。

目が見えないということは、一級障害に認定されています。

本日はバルテマイと言う盲人の癒されたお話です。バルテマイはテマイの子と言う意味ですが、テマイとは不浄と言う意味でとても悲しい運命に育ったと考えられます。

 

イエス・キリストがエリコの町を訪れた時、

盲人バルテマイは、ナザレのイエスと聞くと「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始め、人々が黙らせようと大ぜいでたしなめましたが、ますます大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫びました。イエスは立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねると彼は「先生。目が見えるようになることです。」と答えました。するとイエスは、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われ、彼はすぐさま見えるようになり、イエスの行かれる所について行きました。”ルカ11:46-52参照

ほとんどの人は肉体の目は見えます。しかし心の目、霊の目はどうでしょうか。

神の存在、永遠の世界、生かされている目的、真理とは何か。人生で最も大切なことは何かなどが、わからないならば盲人です。

この世は闇であるとキリストは言われ、そして「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

と語られました。

罪と闇から救いと光の中へと移してくださる最大の癒し主がおられます。イエス・キリストとはどのようなお方でしょうか。「あなたこそ生ける神の御子キリストです。」ペテロの信仰告白です。キリストを心に信じる時、今まで見ることのできなかった、神と神の世界が見えてきます。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」

あなたのうえに、信仰による霊の目、心の目が与えられますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰396」1月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰5」です。

イエス・キリストのミニストリーに関する代表的なメシア預言です。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、・・・。」イザヤ61:1

 

メシアの働きは、救いと解放、いやしと慰め、励ましです

病には、これらすべてのことが必要です。体の病は心も傷つけ、多くの場合悲しみ苦しみが伴います。そして、体も心も時間も経済も多くの苦しみを生みます。

しかし、キリストは霊と心と肉体、のみならず社会生活におけるすべての必要を備え、満たされるお方です。ゆえにみ言葉は、続きます。

「主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套をつけさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」イザヤ53:2-3

ここで何回も、~の代わりに~を与えると言われています。

イエス・キリストはすべてのマイナスをプラスに変えてくださる救い主、いやし主です。

あなたの上に神の恵みと祝福、救いと癒しが豊かに注がれますようお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰395」1月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰4」です。

イエス・キリストは癒し主なる神ご自身です。本日も癒しの信仰を取り上げます。

 

”ある村に入られると十人のらい病人(ハンセン病患者)がイエスに出会った。彼らは遠く離れたところに立って、声を張り上げて、「イエスさま。先生。どうぞあわれんでください。」と言った。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返してきて、イエスのもとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

それからその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直した(救った)のです。」”ルカ17:12-19

イエスはこの十人のらい病人すべてを、癒されました。ところが、一人だけがイエスのもとに来て感謝をささげました。

イエスを通しての救いは、霊と心と体における救いです。ひとりだけが、本当の救いを受けたのです。体の癒しは、必要であり、感謝です。しかし、肉体のいのちは一時的です。霊魂の救いは、永遠です。

このサマリヤ人のように本当の救いを受けて、神に感謝の礼拝をささげる人は幸いです。

あなたの人生に、神の救いと祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰394」1月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰3」です。

「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」マタイ4:23

 

イエスは、メシアとして神の国の良い知らせ福音(ゴスペル)を宣べ伝えられました。

これをマタイは、御国の福音と呼んでいます。天の御国とは、神がいっさいの権威と愛で、ご支配されている神の統治の場所です。

神の国に病気はありません。それを現わし示すために、イエスは多くの病人を癒されました。

「イエスのうわさは、シリヤ全体に広まった。それで、人々はさまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れてきた。イエスは彼らをお直しになった。」マタイ4:24

 

「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこでイエスはみことばをもって、霊どもを追い出し、また病気の人をみなお直しになった。これは預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け

、私たちの病を背負った。』マタイ8:16-17

癒しはメシアなるキリストの証明なのです。そしてこのことは、天の御国をあらかじめ示す、予表なのです。

あなたの上に神の国と神の支配と祝福が、すなわち完全なる神の癒しと守り、健康が与えられますことを、お祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰393」1月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰2」です。

主なる神には、その御性質と御力に関わる、多くの名前があります。

”そして仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、又その命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。出エジプト15:26

ここで、神なる主は、ヤーウェ(主)ラファー(癒し主)と自らを呼んでいます。

神は癒し主なるお方です。

仏教の言葉に、人生における四つの苦しみを、現す「生老病死」と言うことばがあります。生きる苦しみ、老いる苦しみ、病いの苦しみ、死の苦しみ、これらは、人間のだれもが避けることのできない根本的な人生の苦しみです。

多くの人が、病いで苦しみ生涯を閉じています。しかし、肉体の病いよりも大きな苦しみの問題は、罪の病いです。キリストは肉体の病いを癒すだけでなく、心の病い、霊の死をも、癒し救いに導かれるお方です。この救いのために、すべての人の罪と病いの代価を十字架で支払われたのです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」Ⅰコリント1:18

あなたが、霊と心と体の救い、健康、罪の赦し、平安を受けられますことを、心よりお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰392」1月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰」です。

「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」マタイ9:35

メシアとしてのキリストの働きを現わしたみ言葉です。

30才でメシアとして公生涯に立たれたイエス・キリストは会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病いやわずらいを御癒しになりました。

本日より「癒しの信仰」を取り上げます。聖書の中には、沢山の癒しに関する証しや、み言葉があります。メシア(救い主)の働きにおける大切なことは、人々の霊と心と体の救いと健康です。

 

イザヤ書の中に、多くのメシア預言が記されていますが、53章は十字架預言です。

イエス・キリストの十字架は、人類の罪と病いからの救いと解放です。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:4-5

イエスは人々の悲しみや痛みを知っておられ、自ら罪と病いを身に背負われ、その打ち傷によって癒されたのです。

あなたの罪と病いは、キリストが代価を払ってくださったのです。それゆえに、救いと癒しが与えられるのです。

「イエス・キリストの打ち傷によってあなたの病は癒された。」癒しの宣言です。

信仰によって、救いと癒しを、受け取られますようお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰391」1月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰15」です。

神の存在は、肉体の目では見ることができませんが、被造物を通して創造主の存在が、明らかにされています。

「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかでもあるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、っきりと認められるのであって、彼らは弁解の余地はないのです。」ローマ1:19-20

 

神の存在は、自然界を通して啓示されています。天体の運行、生物のいのちの仕組み、人体の不思議、美しい花々や、四季の移り変わりなどです。

沢山の自然を通して、神の偉大さ、知恵深さなど、すべての被造物に対する愛やいつくしみを知るとき、唯々感動以外ありません。

 

ダビデの賛歌です。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。」詩篇19:1-4

ぜひ、祈り心で自然界を見つめ、神の声を聞いてください。

人間は、神との交わりを持つように造られているのです。詳しくは、お近くの教会へ、そして神のことばである聖書をお読みください。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰390」1月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは「創造信仰14」です。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは、何もすることができないからです。」ヨハネ15:

神による創造のみわざは、毎年多くの実が結ばれることを通して証明されています。

世界におけるの果物の中で、最も多くの実を結び、生産量が多いのは、ぶどうの実だそうです。

 

イエスは、自らをぶどうの木にたとえ、実を結ぶ条件は、枝がぶどうの木につながることであると、繰り返し語られました。ヨハネ15章の1-10節で、何と11回もとどまるという言葉が、繰り返されています。

私たちも、キリストと繋がり、とどまっているなら、人生における多くの祝福の実を結ぶことができるのです。

キリストに繋がることは、すなわち、み言葉と御霊に満たされとどまることです。み言葉は語ります。

「・・・御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」ガラテヤ5:22-23

創造主なる神、イエス・キリストの豊かな御霊の実が、あらゆる中に結ばれますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰389」1月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰13」です。

創造を生み出すことに必要な信仰は、告白する信仰です。

この二つは深い関わりがあり、切り離すことができません。救いに関するみ言葉です。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」ローマ10:9-10

 

キリストによる新しい命の誕生は、心に信じて口で告白する必要があります。”天地創造の時、無から有を生み出された神は、「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。・・・ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。・・・するとそのようになった。” 創世記1:3-7

すべての創造は、神が仰せられたように造られたのです。

「告白は所有をもたらす」のです。多くの必要や問題に対しても同様です。

”イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことにあなたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。マルコ11:22-23

 

”12年間の長血を患った婦人が、「イエスの衣のすそに、さわりさえすれば癒されると、信じ、絶えず告白していた。ので癒されたのです。”マルコ5:27-30参照

あなたの上に告白信仰を通して、創造の御業がなされることを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰388」1月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰12  」です。

「まことに、まことに、あなたに告げます。一粒の麦が死ななければ、それはひとつのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24

キリストの語られたお言葉です。麦が地に落ちて殻を破り、死ぬときに多くの実を結ぶように、人も古い自分に死んで、新しい多くの実を結ぶことができるのです。命を与えることができるのは、創造主のみです。

自然界の植物が啓示しているように、種は死ななければ命を生み出すことができません。人も罪の殻を打ち破り、自分に死んでのみ新しい命の実を結ぶことができるのです。キリストが十字架でこのことを成してくださったのです。

キリストは死と罪とサタンの殻を打ち破り、よみがえられました。

あなたもキリストを通して、古い自分に死んで新しい命の実を結べます。

主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰387」1月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰11」です。

神の創造されたもので、最も尊いものは、いのちです。

イエス・キリストのお言葉です。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ11:25

いのちを創造し、支配しておられるお方は、神ご自身です。

人間は、無から有を、死からいのちを生み出すことはできません。ただ、創造主なる神、そしてそのひとり子なるイエス・キリストのみが、可能です。

キリストは、人類を救うために、罪の代価として十字架にかけられ、死んで墓に葬られた後、死を打ち破り甦られました。命の創造者だからです。

あなたも、キリストを信じて、救いを受け取るとき、死を打ち破り永遠の神にある命によみがえるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16


「神に受け入れられる信仰386」1月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰10」です。

救い主(メシア)としてのしるしとして、盲人の目を開けることが、預言されていました。

あるとき、生まれながらの盲人に対し、人々はイエスに尋ねました。

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざ(栄光)が、この人に現われるためです。」ヨハネ9:2-3

 

「私は世の光です。」と言われたイエスは、盲人の目に泥を塗り、つばをつけて祈り、「シロアム(遣わされた者の意味)の池で洗いなさい。」と言われその通りにしたところ、盲人の目は癒され見えるようになりました。

神は「光あれ。」と、初めに命じすべての被造物を創造されました。「創世記1章参照」

肉体の目を癒されたメシアなるイエスは、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

人間には、肉体の目、知識の目、霊と心の目が、与えられています。

 

神から離れた人間は罪により、霊の目が見えない盲人となってしまいました。永遠の世界があること、神が存在されること、本当の愛と真理なることが見えないのです。

しかし、イエスを信じ、従う者はやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

あなたの霊と心の目が開かれ、神なるイエス・キリストと、出会う人生が与えられますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰385」1月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰9」です。

人類を創造された、創造主なる神は、すべての病をいやされる癒し主です。

本日はヨハネ福音書の第5章、ベテスダの池における癒しの御業です。

 

”さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです。」イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。”ヨハネ5:2-9

 

この世の中は、生存競争の世であり、強い者、早い者が、権力や財力のある者が勝利する社会です。この生まれながらの病人のように、弱者と言われる人は先に行くことができないのです。しかし、イエス・キリストは恵みの神です。ベテスダの意味は、「恵みの家」と言う意味です。人間はすべて罪人です。自分の力で罪とその代価である死に打ち勝つことはできません。ただ、どのような人でも恵みにより信仰により救いを受けることができるのです。

キリストは、すべての人の救いのために十字架にかかり、その代価をはらい、救い主となってくださいました、そして、預言されたとおりに、死と罪とサタンを打ち破り、甦ってくださいました。救いは、この恵みをただ信じて受け入れるだけでよいのです。

ベテスダの三十八年間の病人が、キリストのただ恵みにより癒され救われたように、あなたの上に救いの恵みが与えられますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰384」1月11日

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰8」です。

ヨハネ福音書における第二のしるしを紹介します。

王室の役人の死にかかっていた息子が癒されたお話です。

”そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子供が死なないうちに下って来てください。」イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が治ったことを告げた。そこで子どもがよくなった時刻を彼らに尋ねると、「きのう、七時に熱が引きました。」と言った。それで父親は、イエスが、「あなたの息子は直っている。」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。ヨハネ5:48-53

 

イエス・キリストはここで二つのことで、創造主としてのしるしを現わしました。

第一は、死にかけていた息子の癒しです。すべての者のいのちの創造者であり、癒し主なるお方なのです。第二は、すべての時を支配されておられる創造主です。神の前には、一日は千年のごとく、千年は一日のごとくです。

いのちと時を支配しておられるお方なのです。あなたの霊と心と体の健康と命が守られ祝福されますように。また、あなたに与えられたすべての時が、祝福されますようにお祈りいたします。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」伝道3:1

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。・・・」伝道3:11


「神に受け入れられる信仰383」1月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「創造信仰7」です。

”イエスは言われた。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。人々は驚いてこういった。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのであろう。」マタイ8:26-27

この場面は、ガリラヤ湖でイエスが嵐を鎮められたできごとです。

「嵐の中で、風や湖まで鎮められるお方は、いったいどういう方なのであろう。」弟子たちは、イエスの持つ、力と権威に驚きました。イエス・キリストは、神の子メシアであり創造主です。

「万物は神より出で、万物は神によって成り、万物は神に帰するのである。」ローマ8:6

すべてのものを創造されたお方は、自然界も創造し支配されています。このお方は人生のすべての営みに対しても、良き支配を成されます。

嵐を静められたお方が、あなたの人生を良きにご支配なさることをお祈りしています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28