トラクト集



11.「聖書は初めて」3

人が宗教に求めるもの

 キリスト教がどんな内容の信仰なのかをお話しする前に、キリスト教を含めて「宗教」とは何なのかを考えてみましょう。「宗教」について広辞苑は、「神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事」と定義しています。つまり、人間を超えた神聖な存在を信じる行為です。何のために?それは、人それぞれに異なるでしょう。しかし、「生きる目的と意味」「確かな指針」「心の平安」「幸福」など、これらは古今東西、人々が宗教に求める共通した思いです。人間は、超越した神聖な存在によって、そのようなものを求めるように生まれているという言い方ができるかもしれません。

では、その超越した方がいることを知り、その存在を信じることで、求めているものが得られるのでしょうか。「信じる者は救われる」ということばがありますが、キリスト教では、救いを受けることによって、生きる意味や魂の平安を得られると説きます。「救い」とは何からの救いでしょうか。そもそも「救われる」とはどういうことでしょうか。

罪からの救い

聖書によれば、それは人間がもつ「罪」からの救いです。そう言われると、多くの人が、「自分は法に触れるようなことをした覚えはないし、人としてそんなに間違ったことをした覚えもない。それでも、私にその救いが必要なのか?」と問い返すかもしれません。それに対する答えは「はい」です。

 聖書が示す罪とは、うそや盗みといった一つ一つの行為というよりも、神に逆らい、神を無視して自分本位に生きようとする人の状態、性質のことです。

個々の具体的な悪い行いや思いは、その結果生まれてくるものといえます。この、「罪」の問題こそが、人間(私)とはどのような者か、人を創造した神がそんな人間(私)に何を語っているのかを知る鍵なのです。

 

 人間の罪の起源は、神に造られた最初の人間、アダムが神に逆らったことにあります。アダムと妻のエバはエデンの園で神から、「どの木からでも思いのまま食べてよいが、善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言われたにもかかわらず、蛇(サタン)の誘惑にのって善悪の知識の木から取って食べてしまいます。しかも、その責任をアダムはエバに、エバは誘惑した蛇になすりつけて、自分の非を認めようとしませんでした。その結果、人は神から切り離され、エデンの園を追われることになりました。(創世記3章)

 このアダムの罪により、全人類に罪と死が入り、人は生まれながらに罪の性質をもつようになり、人間は「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル人への手紙9・27)という状態に陥りました。そして、人は自らの力で自分を罪の状態から救うことはできないのです。しかし、神は人のそのような状態を放置せず、回復への道を備えました。それが、イエス・キリストの十字架の贖い(キリストの身代わりの死によって罪から解放されること)、つまり、「救い」です。この「贖いによる救い」という概念はなかなか日本人には理解し難いものです。なぜ、一人の死(犠牲)が多くの人の救いをもたらすのか。

 キリスト教作家 三浦綾子(1922-1999)の名著『塩狩峠』は、一人の鉄道員の死によって多くの人命が救われるという出来事を描いたベストセラー小説です。明治四十二(1909)年に北海道塩狩峠で実際に起こった鉄道事故で殉職した職員、長野政雄がモデルとなっています。彼は、上り勾配で列車の連結から外れ、多くの乗客をのせて逆走する車両を停止させるために、自らの命を犠牲にしました。イエス・キリストによる贖いの死とはどのようなものかを示しています。

永遠のいのち

 十字架による救いとは、アダムの不従順によって全人類に罪が入ったのと同じように、イエス・キリストの死によって全人類が罪から解放され、罪の結果としてもたらされる死に打ち勝ち、いのちが与えられるという解決です。

 

 それは、十字架の上で死んで三日目によみがえったイエスが「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネの福音書11・25)と語っているように、信じて救われるなら、この世での生を終えたあとに、永遠のいのちを与えられるということです。さらに、罪が許されることによって、神と人との関係が回復します。こうして、人々が求める「生きる目的と意味」「確かな指針」「心の平安」「幸福」も、それとともに与えられるのです。聖書は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子(イエス)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3・16)と記しています。この救いを受けるために唯一必要な条件は、キリストを自分の救い主と信じることなのです。

本文は、【Bible Learning聖書ガイドMOOK】(いのちのことば社)から一部編集したものです。シリーズ2は「聖書は非科学的か」。


10.「聖書は初めて」1

聖書について知る前に・・・

世界三大宗教とは、キリスト教(※信徒数約20億人)、イスラム教(同16億人)、仏教(同4億人)の三つを指しますが、その定義は以外にも信徒の数が多い宗教トップ3ではありません。数だけでいえば、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教(同11億人)の順になりますが、ヒンズー教徒はほとんどがインド周辺に集中しているため、三大宗教には数えられていません。※信徒数の出典wikipedia

つまり三大宗教とは、地理的・民族的な枠を超えて世界に広まり、社会と文化に大きな影響を与えている三つの宗教ということになります。その三つの宗教の歴史と、ごく基本的な内容・特徴を見ていきたいと思います。

仏教

仏教の開祖である釈迦(しゃか)の「釈迦」とは、実は北部インド(現ネパール)のある部族の名前です。紀元前五世紀頃、この釈迦族にゴータマ・シッダールタという王子が生まれました。シッダールタは十六歳で結婚し、一児をもうけましたが、やがて人生の意義について悩むようになり、二十九歳の時に出家しました。二人の師のもとで修業をした後、一人で山林にこもって六年間苦行をしましたが、「苦行では悟りを得られない」という結論に至りました。その後、乳粥(ちちがゆ)で体力を回復したシッダールタは菩提樹の下で悟りを開きました。「ブッダ」とは「悟れるもの」という意味ですから、シッダールタがブッタになったのはこの時だといえます。ブッダのおもな教えは諸行無常(この世に変わらないものはない)、諸法無我(物事にはすべて原因と条件<いんねん>がある)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)(執着心を捨てれば訪れる静かな境地)の三つで、三法印と呼ばれています。仏教の経典には、大きく分けて小乗経典と大乗経典があります。小乗経典は、仏陀の没後に口伝を元にまとめられたものです。原始仏典といわれるもので、代表的なものは、涅槃経、法句経(ほっく)などがあります。一方、大乗経典は仏陀の没後数百年たってからまとめられたものです。大乗経典の代表的なものは、般若心経(はんにゃしんぎょう)阿弥陀仏経、観音経などがあります。

聖書について知る前に・・・

世界三大宗教とは、キリスト教(※信徒数約20億人)、イスラム教(同16億人)、仏教(同4億人)の三つを指しますが、その定義は以外にも信徒の数が多い宗教トップ3ではありません。数だけでいえば、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教(同11億人)の順になりますが、ヒンズー教徒はほとんどがインド周辺に集中しているため、三大宗教には数えられていません。※信徒数の出典wikipedia

つまり三大宗教とは、地理的・民族的な枠を超えて世界に広まり、社会と文化に大きな影響を与えている三つの宗教ということになります。その三つの宗教の歴史と、ごく基本的な内容・特徴を見ていきたいと思います。

仏教

仏教の開祖である釈迦(しゃか)の「釈迦」とは、実は北部インド(現ネパール)のある部族の名前です。紀元前五世紀頃、この釈迦族にゴータマ・シッダールタという王子が生まれました。シッダールタは十六歳で結婚し、一児をもうけましたが、やがて人生の意義について悩むようになり、二十九歳の時に出家しました。二人の師のもとで修業をした後、一人で山林にこもって六年間苦行をしましたが、「苦行では悟りを得られない」という結論に至りました。その後、乳粥(ちちがゆ)で体力を回復したシッダールタは菩提樹の下で悟りを開きました。「ブッダ」とは「悟れるもの」という意味ですから、シッダールタがブッタになったのはこの時だといえます。ブッダのおもな教えは諸行無常(この世に変わらないものはない)、諸法無我(物事にはすべて原因と条件<いんねん>がある)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)(執着心を捨てれば訪れる静かな境地)の三つで、三法印と呼ばれています。仏教の経典には、大きく分けて小乗経典と大乗経典があります。小乗経典は、仏陀の没後に口伝を元にまとめられたものです。原始仏典といわれるもので、代表的なものは、涅槃経、法句経(ほっく)などがあります。一方、大乗経典は仏陀の没後数百年たってからまとめられたものです。大乗経典の代表的なものは、般若心経(はんにゃしんぎょう)阿弥陀仏経、観音経などがあります。

キリスト教

旧約聖書(キリスト教誕生以前のことが記されている)には、神に背を向き罪を犯した人類のために、その罪を贖う(代償を払ってつぐなう)救い主が現れるという予言があります。そして今から約二千年前に、イスラエルのユダ族の子孫としてベツレヘムで生まれたイエス・キリストが、自分がその救い主であることを宣言しました。この「キリスト」とは「救い主」という意味で、ヘブル語では「メシア」になります。つまりイエス・キリストとは、名前と苗字ではなく、救い主イエスという意味なのです。イエスは三十歳から教えを説き始め、さまざまな軌跡や癒やしを行い、三十三歳の時に人類の罪の身代わりとなって十字架上で死に、三日目によみがえりました。新約聖書には、このイエスと弟子たちの言行録や、使徒たちが教会に宛てた書簡などが記されています。キリスト教の聖典(教典)である聖書は、これら旧約聖書と新約聖書で構成されています。ちなみに、旧約聖書を信じているところまではユダヤ教もキリスト教と同じですが、ユダヤ教ではイエスを救い主とは認めず、メシアはこれから現れると考えています。したがって、新約聖書は教典として認めていません。

イスラム教

キリスト教、ユダヤ教と同じく、イスラム教も旧約聖書とそこに記されている唯一神を信じています。この唯一神をアラビア語では「アッラー」といいます。イスラム教の開祖は、570年にメッカで生まれたムハンマドは、裕福な未亡人が経営する貿易会社で働いていましたが、その働きぶりを買われて、経営者である未亡人と結婚しました。暮らしにゆとりが生まれたムハンマドはしばしば瞑想にふけるようになり、やがて、四十歳の時に御使いガブリエルを通して神の啓示を受けたとされ、その後伝道活動に入りました。それから、六十三歳で病没するまでの二十三年間のあいだに受けた「神の啓示」を書いたものがコーランです。コーランには、アッラー以外に神はいないということと、この信仰にあずかる者が、それをどのように表明すべきかについて具体的に述べられています。イスラム教の中で最も大切な聖典はコーランで、その次がムハンマドの言行録であるハディースです。他に、コーランを正しく理解するためのものとして旧約聖書全体と新約聖書の福音書も教典として認められています。神

これら三大宗教に共通しているのは、いずれも教典(経典)があること、「人々の救済」「たましいの救い」を語っていることです。ちなみに、日本国内で大きな影響力をもつ宗教として神道があります。神道には、先に紹介した三大宗教のような体系だった教義や教典はなく、日本民族が古くからもっていた神概念に基づいて自然発生的に生まれた宗教だといえます。先祖を祭り、災いをもたらす怨霊をなだめるための祭事を行い、日本人の生活・風俗に深く浸透してきました。日本には、さまざまな自然現象や自然物を擬神化したり、偉人を神格化する文化があり、神道はその媒体となりました。戦時中に「軍神」と呼ばれた東郷平八郎を祭る東郷神社、明治天皇を祭る明治神宮、そして戦没者を祭る靖国神などもその一例です。

本文は、【Bible Learning聖書ガイドMOOK】(いのちのことば社)から一部編集したものです。シリーズ2は「聖書は非科学的か」。


09.「いつも喜んでいなさい」「継続は力なり」「考えてトレーニング」が良い結果に

東京パラリンピック水泳メダリスト           鈴木 孝幸さん

2021年東京パラリンピック(以下・東京パラ)水泳男子百メートル自由形S4(運動機能)決勝。猛然とラストスパートをかけ、残り二十五メートルでトップの選手を抜き去り、一位でゴール。思いっきり水面をたたいて雄叫びを上げる鈴木選孝幸選手の勇姿を、テレビ中継で目撃した人は少なくないだろう。鈴木選手は東京パラ代表、水泳チームのキャプテンとして出場、この金メダルを含む五つのメダルを獲得した。前回のリオ大会ではメダルなしで終わり、一時は引退も考えたというが、この快挙の背景にあったものとは。❶

「特に印象に残っているのは、最初のレース(五十メートル平泳ぎSB3、銅メダル)。メダル獲得がいちばん難しいと思っていたレースで、メダルが取れるかどうかで今後の勢いにも関わってきます。イメージを膨らませて、その感覚で泳げるように、レース前のトレーニングも気を付けてやっていました。」鈴木選手は高校三年生の時に初めてパラリンピックアテネ大会に出場。以後、パラリンピックには五大会連続で出場している。「アテネから北京まではあまり結果に対して執着がなく、どちらかというと自分でチャレンジしていこうというのが強かったです。北京が終わり、会社に就職し、水泳も仕事という形の扱いになってからは、しっかり結果を残さないといけないという責任感は出て来たと思います」だが、リオではメダルなしに終わった。「初めて一個もメダルが取れない大会となりました。以前から、メダルが取れなくなったら引退しようと思っていたので、そういう気持ちになっていました。ただ、イギリスで泳ぐ期間があり、ターンの変更やウエイトトレーニングの方法を変えるなど、いろいろと考えチャレンジする中で、少しずつですがメダル圏内のタイムにまで上がってきたのです」東京パラに向けては、「考えってトレーニングすることに心がけた」と言う。「まず、トレーニングの目的を理解すること。自分がどういうコンディションなら、毎回のトレーニングで質の高い泳ぎができるのか、しっかり理解して臨みました。それが良い結果につながったと思います」+- +- +- +- +- +-

静岡県浜松市出身。先天性の四肢欠損という障害を持って生まれた。小さい頃から教会で育った。「親がクリスチャンで、教会学校から通っていました。気がついた時から教会は当たり前のようなところがあったので、その延長線上で信仰を持ちました。水泳に限った話ではないですが、(神様に)常に見守ってもらえているという感覚がどこかにある。そこが信じていない人と違うかなと思う時はあります」「教会は気持ちを新たにできる場所ですね。礼拝の中でこれまでのことを報告したり、次のことについても考えられる。説教を聴いて感じることもある。学びの場であり落ち着く場所です」教会の人たちの応援も大きいという。「小さい頃から知っている方も多く、水泳を始める前から私を応援してくれています。そういう応援の力は感じますし、本当にありがたいなと思います」大切にしている言葉は「継続は力なり」だ。「いつも喜んでいなさい」(新約聖書・テサロニケ人への手紙第一5章16節)もよく思い返す、好きな聖書の言葉だという。大会後、国際オリンピック委員会(IPC)のアスリート委員に選ばれた。「パラ水泳をはじめパラスポーツの発展に貢献していきたい」と、鈴木選手は抱負を語った。❷

聖書をいつも生活に ━クリスチャン新聞福音版 2022年1月1日発行 通巻544号 ━ より抜粋

❶花束を手に ❷力泳する鈴木選手(写真提供=株式会社ゴールドウイン)


「史実としてのクリスマス」

人類の歴史を紀元前(BC=キリスト以前)紀元後(AD=ラテン語でキリストが来られてから後の「主の年」)に二分する、イエス・キリストの誕生。今も、世界中でイエス・キリストの誕生を祝うのはなぜでしょうか?なぜ、彼の誕生を堺に歴史が二分されるのでしょうか?それは、全人類に対する熱いメッセージが、救い主の誕生に込められているからです。クリスマスは「昔々あるところに…」のおとぎ話ではなく、実際にキリストが生まれた史実であるということを是非知ってください。

クリスマスから始めましょう

クリスマスには希望がある           佐藤 彰

和解をもたらすクリスマス

数年前、イギリスの作家ジェフェリー・アーチャー著の小説「ケインとアベル」が大ヒットしました。銀行の頭取ケインとアメリカのホテル王と言われるアベルが、ちょっとした出来事と誤解により反目し合い、憎しみながら生活するようになります。けれども、ケインの娘とアベルの息子が愛し合い、親の反対を押し切り結婚し、両家の血を半分ずつ受け継いだ共通の孫が生まれます。その名はウィリアム・アベル・ケイン。この子の誕生をきっかけに、長らく続いた憎しみ、復讐心の歩みに、真の和解がもたらされました。この暗闇の世界のただ中に、罪のない神のひとり子であるイエス様が人としてこの地上に生まれ、人間と同じ苦しみ、悲しみを経験されました。創造主に背を向け、不遜な態度を取り続け、それぞれが自分中心に生き続ける人類。イエス様は、十字架にかかることによって私たちの受けるべき罪の刑罰の一切をその身に追われました。ケイン家とアベル家に和解をもたらす孫が与えられたように、イエス様は歴史上、公然と私たち人類に対する罪の赦しと、神との関係の和解のためにこの世に来られたのです。

それは永遠のいのちの希望

今春、白血病で間もない命だという四十二歳の主婦の方から、突然のお電話がありました。彼女は、十年程前、数回教会に訪れたことのある方で、早速病院に駆け付けた私に「死ぬのが怖いんです」と言われました。私が単刀直入に「あなたは天地万物を創造された、唯一の造り主なる神を信じますか」と切り出すと、彼女は間髪入れずに「はい、信じます」と答えました。続けて「あなたは神から離れ。今まで自分勝手に歩んで来た自分の罪を認めますか」と問いますと、彼女は「先生、私は罪深い人間です。十年前教会の門を叩き、新約聖書を手にして以来ここに何かがある、ここに真実があると思っていながらも、まだ大丈夫、神を信じなくてもまだ自分の力で生きていける、と我を張り続けて来てしまいました。私は本当にかたくなな人間なのです」との応答です。最後に「あなたの罪を赦し、あなたを神の子どもとするためにこの世に来られ、罪の身代わりと.なって十字架につかれた、神のひとり子イエス・キリストを信じ受け入れますか」とチャレンジしますと、「信じます。受け入れます」と告白され、「私は天地万物の創造者であられる父なる神を信じます。私の罪を赦してください。和解の使者であられる救い主イエス・キリストを、今私の心の中にお迎えします。アーメン」と純真な幼子のようにお祈りをしました。。彼女の眼からは、涙があふれ出ていました。その二週間後、彼女は天に召されましたが、その間「聖書の言っていることが分かるようになりました」「死の恐怖が消えました」等々、嬉しいお電話をいただきました。

イギリスの作家チャールズ・ディケンズの書いた「クリスマス・キャロル」の主人公は、強欲で、クリスマスなど自分とは無関係という人でしたが、幻のうちに自分の死に様を見せられ、皆悲しむどころか「あんなやつは死んだ方が世のためだ」と言わんばかりの人々の態度に打ちのめされ「一体自分の人生は何だったのか」と深い慚愧(ざんぎ)の念にかられます。その後現実の世界に引き戻された彼は、貧しい人々に施しをし、心優しく人々に慕われ、イエス・キリストの誕生日であるクリスマスを、心を込めてお祝いする人へと変えられます。誰もがほのぼのとした心地に包まれるクリスマスには、天地万物の創造者であられる神からの「イエス・キリストと共に神の用意された道を歩みましょう。この一年どんなつらいことがあっても、このクリスマスからやり直せる。あなたも意味のある人生を送りませんか」とのメッセージが、毎年変わらずに発信し続けられているのです。

どうでしょう。あなたも神のひとり子イエス・キリストがこの世に来られたクリスマスを心からお祝いし、個人的な罪からの救い主と信じ、心にお迎えしませんか。その時きっと今まで体験したことのない平安と、永遠のいのちの希望や力が、湧き上がってくるでしょう。

「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録三章二〇節)

天と地をつなぐ唯一の道、和解の道、それがイエス・キリストです。どんな暗闇が襲ってきたとしても、たとえ死の陰におおわれたとしても、イエス・キリストには希望かあります。まず私たちのかたくなな心を十字架の愛によって溶かしていただき、信仰による天国への希望をしっかりと握りしめ、神と人とに喜ばれる道を選び取り、共に歩んでいきましょう。

 

         【福島第一聖書バプテスト教会牧師著 発行:プレイズ出版より】


07.「神様は乗り越えられない試練は与えない」

~13歳の娘を失った母の祈り~

「神様は乗り越えられない試練は与えない」

この言葉は最近、有名なスポーツ選手たちによって、世の中でもよく知られている言葉となりました。しかしコロナや震災など多くの苦しみを経験している私たちにとって、果たしてこの言葉は真実なのでしょうか?

この言葉の元となっているのは、聖書のみことばです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ脱出の道も備えてくださいます。」コリント人の手紙の第一の手紙10章13節

「どうしてこのようなことが?」

2016年4月4日、私の娘、奏音(かのん)は13歳という若さで、天国へと旅立ちました。桜の咲く誇る季節にお花見に出かけた車の中で、眠ったまま亡くなったのです。司法解剖をしても死因は分からず、突然死というものでした。その日まで元気に部活動もしていたのに、何の前触れもなくそのようなことが起こるのかと信じられませんでした。奏音は宣教師である私たちと共に、日本、韓国、中国へと渡り、自分も将来は宣教師になりたいと言っていた子でした。「それなのにどうしてこのようなことが?」という思いが私の中に込み上げ、神様に訴えかけました。「神様、わが子を失うほど辛いことはないのに、私に耐えられるとでも言うのですか?私はこのような試練には耐えられません。脱出の道とはいったい何なのですか?」と。

「もし死ねば、豊かな実を結びます」

悲しみに暮れている私に神様は一つの聖書のみことばを与えてくださいました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」ヨハネの福音書12章24節 

奏音の命は一粒の麦となって地に落ちたけれども、これから多くの実が結ばれていくというものでした。奏音の死によって新たに何かが始まっていくというのです。奏音のいない未来を思うと嘆きや憂いの気持ちしかありませんでしたが、真っ暗闇のトンネルの中に、一筋の明るい光が差し込んでくるようでした。葬儀には多くの同級生たちや先生たちが参列され、彼らに奏音の生涯は短かったかもしれないが、神様からの使命を果たし、今は天国にいて永遠の平安の中にいることを伝えました。また、奏音が生前、ソロで歌った「新しい命」(中山有太師作詞、作曲)という賛美の動画を葬儀で流し、SNSにアップすると、それが同級生たちの間に広まりました。学校でも、その賛美を覚えて歌っている子がいたそうです。奏音の命は一粒の麦になって、同級生たちに種がまかれていることを知りました。

空に現れた十字架

奏音の葬儀をすべて終えた後、私たち家族は身も心も休めるために温泉に行きました。奏音の記念になるものを買いたいと思い、ガラス細工の店に入ると、二重の十字架の形をしたネックレスを見つけました。十字架が一つのものはよく見ますが、二重になったものは珍しく、それがイエス・キリストの十字架と奏音の十字架であるように思われ購入しました。その帰り道に晴れ渡った空をふと見上げると、一直線に横に伸びる飛行機雲を見つけました。その飛行機雲を垂直に横切るように、また違う飛行機雲が現れました。空に大きな十字架ができたのです。しかも、それで終わりではありませんでした。さらに、もう一つその横に垂直に横切る飛行機雲が現れ、先ほど買った十字架のネックレスのように二重の十字架が空に現れたのでした。神様がまるで「奏音は今、私と共に天国にいるから安心しなさい」と語っておられるかのようでした。

中学校からの大きな励まし

奏音が召されて10日ほど経った時に、中学校の学年主任の先生が自宅に訪ねられて来られました。その先生は主人が中学3年生の時の担任だった方で、私たちのことを心配してくださり、奏音の同級生全員が奏音の思い出を書いてくれたものを届けてくださいました。奏音はいつも笑顔で積極的に自分から話しかけ、また友達の悩みを聞いたり相談に乗っていたようでした。奏音の担任の先生からは、奏音が人と人を繋げる接着剤のような役割をしていたと聞きました。その後も中学校の行事や参観日などには私たち家族を招待して下さり、参加する度に奏音の友達から声をかけられたり、また修学旅行には奏音の遺影を持っていってくれたり、部活の試合の時はには必ずベンチに奏音の遺影を置いてくれました。また卒業式には奏音の名前を呼んでくださり、全員が奏音の代わりに返事をしてくれて、私が卒業証書を受け取りました。卒業アルバムには奏音の写真を全てのクラス写真に載せてくださいました。召された後も、同級生の一人として奏音のことを大切にしてくださったことは、私たちにとってどれほど大きな励ましと慰めになったか分かりません。

癒やし主イエス・キリスト

神様は私が前を向いて歩んで行けるように脱出の道を与えてくださり、癒しを与えてくださいました。もちろん完全に悲しみが消えたわけではありません。涙が出る時もあります。それでも神様の愛は以前よりも深く体験しています。聖書にこのようなみことばがあります。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷にによって、私たちはいやされた。」イザヤ書53章5節

ここで言われている彼とは、「イエス・キリスト」のことです。キリストは、私たちを癒やし回復してくださるお方です。それは十字架の上で私たちの代わりに、その傷や痛みを負ってくださったからです。神様を知らずに自分勝手に歩んで来た私たちの罪をゆるすために、神様は愛する自分のひとり子であるイエス・キリストにその罪を負わせました。神ご自身もわが子を失われたのです。十字架の上でキリストは死なれましたが、死の力を打ち破って三日目に復活されました。そのことを信じ受け入れたとき、あなたに永遠のいのちが与えられ、心の傷は癒やされ、また新たに生きる希望が与えられるのです。絶望の中から立ち上がる力は、死に打ち勝たれたイエス・キリストのうちにあるからです。

桜の季節は巡り桜の季節になると、あの時のことを思い出し辛くなる時もありましたが、一粒の麦が実を結んでいくことを期待しながら、やがて来る奏音との再会と、私自身も神様に抱かれて永遠の安らぎが与えられるという天国の希望に胸があふれます。今は「神様は乗り越えられない試練は与えない」という聖書のみことばは真実であると告白することができます。あなたもイエス・キリストによって、神様から与えられる脱出の道、そして永遠のいのちと希望を受け取ってください。

プロフィール:井上輝子 TIM(ツラノ海外宣教会)宣教師。今までにグアム、韓国、日本へ宣教師として遣わされる。                            発行:TIM-Japan より


06.「私たちはいつも覚えられている」横田早紀江

愛するわが子が突然消えてしまってから今日まで、彼女は苦しんでいる人たちのために奔走し、祈り続けてきた。娘めぐみさんのため、拉致被害者のため、北朝鮮の人々のために。自ら苦難を生きてきた彼女が、苦しみ悲しんでいるすべての友に贈ることば――。

苦悩はいつ襲ってくるかわからない

 

 愛すべき人たちがなぜこんなことに・・・・・。災難や苦難はいつ、どんな人に突然襲ってくるかわかりません。日々起こる事件や事故のニュースを聞くたびに、その被害者だけでなく、家族や周りの人々もどんなにつらい試練に遭われていることだろうかと想像します。私たち家族もかつては、ごくありふれたささやかな幸せの中にある者たちでした。1977年11月15日、思ってもみなかったあの事件が起こるまでは・・・・・。

 

突然、愛する子が煙のように姿を消してしまった

 それはにわかに信じられない、受け入れがたいことでした。どんなに苦しく、耐えがたいことだったでしょう。娘のめぐみがこつ然と姿を消してしまった時のさまざまなことが、心によみがえります。「どうか生きていて!」と絶叫したくなるような気持で、私は毎日娘を捜し回りました。何の手がかりもなく、時間だけが過ぎました。生きる望みが絶たれたようで、心にむなしさが満ちるばかりでした。

そんな時、私は一冊の聖書を頂きました。「悲しみの最中、どうしてこんなに分厚い本を読むことができるるものですか」とも思いましたが、涙にくれるしかない私は何気なくページをめくって、ヨブ記というところを読み始めたのです。ヨブという人は、信仰のあつい正しい人でしたが、子どもたちを一度に亡くし、すべての財産を失い、自らも重い病に冒されます。あまりの悲惨さに、時に生れたことを呪い、神に恨み言も言います。しかし、最後まで神に目を向けて苦難の時を通り抜けるのです。どんな苦難の中でも、神に信頼するヨブの姿に、言いようもない感動を覚えました。

 

「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主(神)は与え、主は取られる。主の御名をほむべきかな。」ヨブ記1:21

このことばに、私は引き付けられました。さらに読み進んでいくと、聖書の一つ一つのことばは私のたましいに、痛みとともに心地よくしみました。人を超えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じたのです。めぐみがいなくなってから、ほんとうに久しぶりに深呼吸が出来たことを覚えています。

人知の及ばないことも神の手の中に

 少しずつ聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚さに気づかされていきました。そして私のように罪あるすべての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。「神さま、私は本当にあなたを知ろうともしない罪深い、生まれながらのわがままな者です。人知の及ばないところにあるあなたのご存在は、この世の悲しみ、苦しみ、すべてのものをのみ込んでおられることを信じます。めぐみの悲しい人生も、この小さな者には介入できない問題であることを知ります。」こうして、私は神を受け入れました。ヨブは苦しみにあった時、友人たちから責められました。あなたが悪かったからではないのか、因果応報だと。しかし、そうではないのです。そこには人間をはるかに超えた神のご計画が、計り知ることのできない神のご意思があるのです。「神は愛です」と聖書にあります。神はきよくて正しく愛にあふれたお方だということを、そして、私たちは、その方の手の中に包まれて生かされているのだということをいつも思わされています。

 あなたはいつも覚えられている

被災地の避難所などで、自我を抑えながら支え合い、いたわり合って生活をしていらしゃるみんなの姿に、愛と希望を感じました。私も心が混乱している時、周囲の人のさりげない支えによって助けられました。自分のことを見てくださっている方がいるのだということがわかるだけででも大きな慰めでした。互いにことばをかけ合って、あなたを忘れていないよ、ということを伝えてさしあげていただきたいのです。どんな時も、輝く日の光が私たちすべてに降り注がれています。野には花が咲きます。すべての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。うつむく時も、背中に太陽の熱を感じます。だれも見ていないように思える時にも、神はあなたを心にかけておられるのです。どうか、あなたの上に神の平安がありますように。

                            (いのちのことば社EHCより抜粋)

横田早紀江(よこた・さきえ)

 

京都に生まれる。1977年、長女のめぐみさん(当時13歳、新潟市立寄居中学1年生)が下校途中で消息を絶ち苦悩の日々が始まる。その後、宣教師夫婦に導かれてキリスト教の信仰に救いを求め、84年受礼。97年、元北朝鮮工作員の証言により、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたことがわかり、夫の滋氏とともに、めぐみさんの救出に乗り出す。2002年、北朝鮮政府は日本人13人の拉致を認めたが、拉致被害者安否の発表で死亡とされた人の中に、横田めぐみさんも含まれたいた。しかし娘の生存と再会を信じ、活動を続けている。著者『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(草思社)、『ブルーリボンの祈り』『愛は、あきらめない』(いのちのことば社)など。


05.「イースター」って・・・?

近では日本でも「イースター」が知られるようになりました。お店では卵やウサギの飾り物を目にしますし、カラフルに色づけしたゆで卵を屋内や屋外に隠して子供たちがそれを探すゲームも行われているようです。世界中の国々でイースターの卵に関する様々な習慣があります。たとえば、ロシアと東ヨーロッパでは卵を赤く塗ります。またアメリカのホワイトハウスでは、芝生の上でイースターエッグを転がすというおもしろい習慣もあります。このようなイースターの習慣は一体どこからきたのでしょうか。また、どのような意味があるのでしょう。実は、これらはみな、聖書に記されたある出来事に由来しています。

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今から二千年前ほど前、イスラエルに一人の人が現れました。外見は普通の人と同じでしたが、国中を巡って、人々が驚嘆する奇跡をたくさん行いました。病気の人々を完全に癒やしたり、悪霊を追い出して人々を解放したり、わずかな食べ物を増やして四千人、五千人を満腹させたこともありました。またある時は、荒れ狂う波風に命令して静めたり、湖の上を歩いたり。ここには書き切れない数々の不思議なわざを行っていたのです。その人の名は、イエス・キリストです。「イエス」とはユダヤ人としての名前で、「キリスト」とは「神から遣わされた救い主」を意味する言葉です。イエスは悪いことは一切なさらず、人々を助けながら神の国と神の愛を伝えていました。しかし、ユダヤ教の学者や先祖伝来の教えを守ることに熱心な人々は、嫉妬心からイエスを捕らえて死刑を宣言し、十字架につけて殺したのです。

イエスの遺体は洞窟のお墓に葬られて、入口は大きな岩で塞がれました。イエスの弟子たちによって遺体が盗まれることを警戒した人々は、見張りの番兵まで置きました。ところが、どうでしょう。三日後、イエスの弟子たちがお墓に行ってみると、入口の大きな岩が転がされていました。そして、置かれていたはずのイエスの遺体はなくなっていたのです。復活です。イエス・キリストが死から生き返るという、歴史上最も驚くべき出来事が起こったのです。その後イエスは、何度も弟子たちの前に姿を現しました。五百人以上の人がよみがえったイエスにお会いしたと、聖書に記されています。キリスト教界では、イエスの復活を記念する日を「イースター」と呼び、毎年お祝いしています。「イースター」という言葉自体はヨーロッパの古い祭日から派生したといわれています。日本では「復活祭」と訳し、意味がもっと明確になっています。

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さて、イエス・キリストを信じるクリスチャンにとって、卵は、復活の大切な象徴となりました。ひなは卵の殻を破って出てきますが、それがイエス・キリストが新しいいのちを得てお墓から出てきたことを連想させるから、とされています。また、卵はお墓の前に置かれた岩を現すと考えるクリスチャンもいて、芝生の上で卵を転がすのは、イエスのお墓の岩が転がされたことを表しているといいます。そして、卵に塗る赤色は、イエスが十字架で流した血を表しているのです。ひなが赤く塗られた卵の殻を破って誕生する。それは、血を流されたイエスが死の力に打ち勝ち、新しいいのちをもってお墓から出られたことを象徴しているのです。

聖書は、イエスが十字架で血を流されたのは、すべての人を罪から救うためだったと伝えています。人には神から離れて生きようとする罪の心があり、そのままでは滅んでしまう。しかし神はそのような人々を愛して、神の子イエスがすべての罪人の代わりに十字架にかかり、罪の罰を受けるようになさったと教えています。そして神は、イエスを死からよみがえらせ、イエスが滅びに打ち勝つ唯一の救い主であることを示されました。

みなさん、イースターは二千年前の出来事だけで終わったわけではありません。イエスは地上におられた間に、すばらしい希望を約束してくださいました。

「わたしはよみがえりです。。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」 ヨハネの福音書 11:25 神様は、もし私たちが復活したイエスを信じるなら、私たちもまた新しいいのちを得ると、聖書を通して教えて下っています。

「キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」ローマ人の手紙 6:4 新しいいのちとは、地上において神と共に生きるいのちであり、、地上のいのちが終わっても、神のみもとで永遠に安らういのちです。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 

             ヨハネの福音書 3:16  (いのちのことば社EHCより抜粋)


04.「新しい人生が始まる」  ~ 村上宣道 ~

「むらかみのぶみち」

PBA太平洋放送協会ラジオ番組「世の光」など、メディアを通して長年にわたりキリストの愛を伝える。

    

「新しく生まれ変わることができたらなぁ」とか、「人生をもう一度やり直すことができたらなぁ」などと、一度二度思ってみたことのある人は少なくないでしょう。「よし、今度こそ再出発だ」などと何回か繰り返して、「やっぱりダメだ」と挫折した覚えのある人も、けっこう多いのではないでしょうか。こういう私にもその経験は十分すぎるほどあります。そんな私たちに、希望を与えてくれる次のような聖書のことばがあります。

「だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる。もはやそれまでと同じ人生ではなく、この新しい人生が始まったのである。この新しい出発は、神がしてくださったのである。」(現代人の聖書より)

いかがでしょう。今までと同じ人生ではなく、新しい出発も夢ではないというのです。新しい人生や新しい出発は、私たち自身の決心やがんばりでは、どうしてもできないということを、私たちは今までいやというほど経験してきました。ですから、新しい出発は神がしてくださることなのだと聖書は言っているのす。ここで、ひとりの方の本当にあった話をご紹介してみましょう。

 自分のやることなすこと何もかもうまくいかないところから、自暴自棄になって身を持ち崩し、とうとう自分自身にもあいそを尽かして、死のうと決心した一人の青年がいました。彼が服毒自殺を図ろうとして、ある旅館に宿をとり、その一室で遺言をしたため、その中に「今夜十二時を期してこの世にいとま(別れ)を告げます」と記したのです。手元の時計を見ると十二時二十分前でした。「まだ二十分あるな」と思いながら、極度の緊張が続いていたせいでしょうか、そこにうつ伏せになったまま寝込んでしまいました。だいぶ時がたったと思われるころ、ハッと目を覚まし、「そうだ、オレは死ぬんだっけ」と時計を見ると、なんと、まだ十二時二十分前を指したままです。「あれっ、確かさっきも二十分前だったはずだけど」時計を耳に当ててみる。音がしない。振ってみた。針が動かない。「なあんだ。この時計、壊れてる」そしてこの青年はこうつぶやいたのです。「しょうがないなぁ。時計屋へ持って行って直さなきゃ」。

しばらくして、彼にふと、こんな考えが浮かんできました。「待てよ。時計が壊れたら時計屋へ持って行けば直る。もし車が壊れたら車屋だ。少なくともそれを作っているところへ持って行けば直る。このオレの造り主って誰なんだろう?それが分かれば、このオレでも何とかなるんじゃないのかな」。それでこの青年は、「遺言も用意したし、死ぬのはいつでも死ねる。オレの造り主とやらを探してみてからでも遅くはない」と死ぬのは延期して、「オレの造り主やーい」とばかりに探し始めたのです。多くの本をあさり、宗教家を何人か訪ねたりもしましたが得られず、ついに彼はキリスト教会の門をたたいたのでした。そして聞いたのは、「天地を創造された神があなたの造り主だ。だから、その神はあなたを造り変えることができる。そのために神は、ご自分のひとり子のキリストを遣わし、キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架に死んでくださった。そのことを信じるなら、すべての罪や過ちを赦してもらうことができる。それだけでなく、キリストは死よりよみがえられた方だから、あなたの人生をもよみがえらせることができる」という話でした。

この青年は「だれでもキリストを信じるなら、その人の心は全く新しく変えられる」という神の約束のことばを信頼し、その教会の牧師と共に祈り、新しい人生のスタートをきることができたのです。やがてこの青年は牧師となり「この私を造り変えてくだたった神は、あなたをも造り変えることができる方です」と伝える人となりました。

まさに「もはやそれまでと同じ人生ではなく、この新しい人生が始まったのである。この新しい出発は、神がしてくださったのである」と聖書に書かれているとおりではありませんか。

ちょっと話は飛躍しますが、「桃栗三年柿八年」ということばがあります。桃や栗は三年で実がなり、すぐに食べられますが、柿は八年かかってやっと実がなっても、渋くて食べられません。「渋柿や 丸八年の恩知らず」という句があるそうですが、この渋柿に甘い実を実らせるにはどうしたらよいのでしょうか。どんな肥料をやっても、日当たりのいいところへ植え替えても、甘くなりません。方法はただひとつ。渋柿の木をバッサリ切って、そこに甘柿の木を接ぐしかないのです。するとなぜか内側から変えられて、見事に甘い実を結ぶようになります。

 人間も新しい、甘い実を結ぶように変えられるのに、方法はやはりひとつしかないのです。どんなに環境を変え、教育などの手入れをしてみても、渋柿は渋柿、その本質が変えられるものではありません。ちょうど、渋柿が甘柿の木に接ぎ木されるように。人間もキリストのいのちに接がれるほかはないのです。キリストの十字架の傷口に、私たちの悔い改める心が結び付けられるとき、キリストの十字架の愛とよみがえりのいのちの力は、内から働き始め、全く新しい実を結ぶ、新しい人生へと出発されてくださるのです。

いかがでしょう。あなたも「人生をやり直したい」とお思いでしたら、造り主なる神、そして救い主であるキリストによって、新しい人生をやり直してみてください。

  

                            (プレイズ出版より抜粋)

 

 

 


03.「マイケルチャン」~勝利より大切なもの~

         

現在、錦織圭選手のコーチを務めるマイケル・チャン氏は17歳の時に史上最年少でグランドスラムを優勝した、輝かしいテニスプレーヤーだった。

しかし、多くの勝利を重ねていた彼も、一度コートを離れれば、人生に悩みを抱えたごく普通の少年にすぎなかった ・・・

 

 

「世界四大大会の一つ、全仏オープンで最年少優勝という快挙を果たした」

 

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ニス世界ランキング最高四位、アジア人男子初のグランドスラム(テニスの世界四大大会の総称)準優勝をはじめ、錦織圭選手の快進撃は止まることを知らない。この飛躍の一つのきっかけと言われるのが、2013年からコーチを務めるマイケル・チャン氏だ。台湾系米国人であるチャン氏は、1989年に史上最年少の17歳でグランドスラムを優勝し、世界を驚かせた。その後も勝利を重ね、世界ランキングは最高2位に。後に「チャン・ファミリー財団」を創設し、青少年育成と地域社会発展に貢献。2008年にはテニス殿堂入りを果たした。この多方面での活躍の背景には、目先の勝利にとらわれず、人生の勝利を確信する信仰があった。

「錦織選手のコーチとして」

テニス選手としては比較的小柄ながら、技術と精神力に定評があったチャン氏。彼の境遇と実績が、同じくアジア系で小柄な錦織選手のコーチ就任につながった。就任当初、チャン氏の方針に錦織選手は戸惑ったそうだ。「すでに実績のあった圭にとって、さらなる猛訓練や指摘を受け止め、真意を理解するまでには時間がかかったようだ。だが、実際にプレーが上達し、大会で成績が出始めると、信頼関係が生まれてきた」と、チャン氏は二人の今までを振り返る。 チャン氏は、信仰と勝負は似ていると言う。「トップ選手の間では、勝因の2割は身体面、8割は精神面と言われる。勝つと信じなければ絶対に勝てない。同じように、人生のさまざまな出来事は偶然ではなく、神がいると信じたとき、その理由を理解できる。」

 

❷「神はすべての出来事に理由をもっている」

チャン氏は台湾から移民した敬虔なクリスチャンの一族に育ち、テニス好きだった両親の影響で、兄と共に6歳でテニスを始めた。

 チャン氏がキリスト教.信仰をもったのは16歳の時。全仏オープン戦で初優勝する数か月前だった。すでにジュニア戦で頭角を現し、15歳でプロに転向。将来を約束された有望なテニス選手だった。だが、ひとたびコートから離れれば、彼は「自分は何者なのか。自分は将来どうなっていくのか」と苦悩する一人の少年だった。「テニス選手としては成長していたが、内面はまだ少年のままだった。」と当時を振り返る。

 十代に入ってからは、教会への姿勢は消極的になり、日曜の朝はわざと寝坊をしていた。悶々(もんもん)とした悩みを抱えたまま、久々に祖父母がいる教会を訪ねた時、礼拝で語られた「神はすべての出来事に理由をもっている」という言葉が心に刺さった。家に戻ると、本棚に放置していた聖書を開き、むさぼり読んだ。「聖書に書かれていることは、すべて真実で正しい」と感じたチャン氏は、神が自分に、自分の人生を生きるよう望んでいることを知った。続けてイエス・キリストの生涯について読み通し、「私のいのちのために、十字架で死んだキリストの愛はなんと大きいのだろうか。何が起きても、キリストは私を捨てない」と確信を得た。そして、「『私の心に来てください、私をあなたの目的にしたがって変えてください』とイエスに祈った。私はその時、イエスを知り、イエスについていく生き方をしようと決断した。」とチャン氏は語る。

 数か月後、世界中の人々が見守る中、全仏オープンの表彰式で17歳の少年の口から出た言葉は次のようなものだった。「主イエス・キリストに感謝します。イエスなしでは、私は何者でもありません。」

❸「マイケル・チャンが信じること」

 チャン氏にとって選手として大きな試練となったのは、1996年の全米オープンだった。勝てば世界ランキング1位になる勝負で敗れてしまったのだ。「もちろん悔しかった。だが大事なことは、神はすべてのことに目的をもっているということだ。人は『ああなれば良かった、こうなれば良かった』と思いがちだが、そうではない。そこまで到達するまでにさまざまな祝福を受けてきた。今もなお素晴らしいことが起こる。かつては勝ち負けに強くこだわっていたが、信仰を持つことで考えが変わってきた」と、当時の敗戦を肯定的とらえていた。

          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

チャン氏が最も好きな聖書の箇所は

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」 

(新約聖書・ローマ人への手紙8章28節)だそうだ。

「神はすべての人々の人生に目的を与えている。人々がそれを知ることを求めている」と、神が私たちに目的をもっていることを力強く語った。

  

                            (いのちのことば社EHCより抜粋)

 

 

 


02.「寄り添う愛に生きる」

古今東西を問わず、人は不老長寿の妙薬を求めて旅を続け、巨万の富を築いてきました。そして今や日本は世界一の長寿国になりました。金持ちになりたい、健康でありたい、長生きしたい、これが人間の願望のすべてです。

しかし、不老長寿は手にしても、不老不死は見つかりません。聖書はこう宣言しています。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」詩篇90篇10節

ある人が、遺産相続で悩んでイエス様のところに相談に来ました。すると、イエス様は「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」と言われました。いのちと財産が関係あるなら、貧乏人は早死にし、金持ちだけが長生きして、地球上は金持ちだけになっているはずです。しかい、現実には3分の2以上の人々は貧しさの中で生きているのです。そしてイエス様は「ある金持ちのたとえ」を話されました。

          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は心の中で考えた。どうしょう。作物をたくわえておく場所がない。」

 

成功する条件は・・・

❶「考える人」

人生には、苦労とわざわいはつきものです。問題から逃げる人は成功しません。金持ちは、まず「どうしょう」と考えました。

❷「決断する人」

さらに彼は、ひらめいたことを、勇気を持って決断しました。「こうしょう。あの倉を取り壊して、もっと大きいのを建てよう。」

❸「実行する人」

彼は早速、新しい大きな倉を建てて、穀物や財産をたくわえました。決断しても実行しない人は、絵に描いた餅を眺めて座り込んでいるだけの人です。犠牲を惜しまずに実行し、彼は言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」しかし、神は彼に言われました。「愚か者。今夜死んだら、その富はだれのものになるのか。」

          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆

彼が富をたくわえて金持ちになったことが、愚かだと言われたのではありません。心の平安、魂の安心を物だけに依存したからです。

 

もし物質の豊かさだけが心の安心の拠り所ならば、日本人はひとりも自殺しないでしょう。しかし現実はそうではありません。3人に1人がうつ症候群と言われているのです。

 

本当に豊かな人になるために

 

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」 イザヤ書43章4~5節

本当の心の平安、魂の安心は、私たちを造られた神の愛に寄り添うとき与えられます。そのとき、心から「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と言えるのです。確率100パーセントでやってくる死の準備をしていない人は、どんなに多くの富をたくわえていても、心は貧乏なのです。いつ、地震や津波などの天変地異が襲ってきても、死の宣告を受けても、神の前に立つ準備ができている人は、心と魂の平安を奪われることはありません。肉体は死んでも、魂は永遠に生きるのです。あなたは永遠をどこで過ごされますか?

 

イエス様は、心の平安を奪う罪と死の問題から、あなたを開放するために十字架にかかり、あなたの身代わりとなって死に、3日目によみがえられました。そのことを信じる者はみな、永遠に天国で生きることができるのです。

永遠を天国で生きることこそ、次の世代に残す、失われることのない遺産です。あなたもイエス様を信じて、心豊かな、平安な人生を送ることのできる「本当の金持ち」になってください。

 

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

                         ヨハネの福音書14章27節

 

                            (プレイズ出版 福澤満雄氏より抜粋)

 

 

 


01.「西郷どん」はキリスト者だった!?