神に受け入れられる信仰2


「神に受け入れられる信仰151」4月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、日本ネクストタウンズクルーセード(ミッション)の創設者、J・M・ベル師、ルツ師宣教師夫妻の信仰です。ベル夫妻はマルコ1:38より「ネクスト・タウンズ・クルーセード=次の町々へ出て行って福音を宣べ伝える」のビジョンを、主から受け宣教を開始行いました。大阪の石切を起点に、布施、四条畷、茨木、東京の昭島と次々に開拓伝道を行い、三重県、愛知県、さらに日本各地に福音が拡大していきました。クート師からベル師夫妻、宣教師たち、バトンを受け取った働き人、多くの器を通して、同じ信仰をルーツとする教会が生まれ、多くの人々が救われ現在に至っています。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」口語訳 ピリピ2:13

 

ベル夫妻は、天に召されましたがそのビジョン(ネクスト・タウンズ・クルーセード=次の町々に福音を宣べ伝える。)は今も、これからも生き続いています。


「神に受け入れられる信仰150」4月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、生駒聖書学院の創設者であり、日本におけるペンテコステ信仰の草分けとなられた、L・Wクート宣教師の信仰です。クート師は1929年奈良県の生駒市に聖霊派の神学校生駒聖書学院を創設しました。東のアッセンブリー教団の弓山師と西の生駒聖書学院のクート師は日本における異言の伴う聖霊信仰の草分けです。

太平洋戦争時は、宣教師の帰国で、学院が閉鎖されていましたが、1950年クート師の再来日と共に、再開され現在に至っています。クート師は「不可能は挑戦となる」をモットーに米国テキサスのサンアントニオにIBC、さらに韓国、フィリピンにも神学校を創設し1969年「前進!」の一言を残し78才で天国に凱旋しました。クート師を信仰のルーツとする教団(日本ペンテコステ教団、日本ネクストタウンズミッション、シオン宣教団、福音の群れなど)教会、働き人、信徒は、多数に渡りまさに、一粒の麦が豊かな実を結んだ信仰でした。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24


「神に受け入れられる信仰149」4月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、戦国大名明智光秀の三女玉、後に細川忠興に嫁ぎキリシタン信仰を持ち、細川ガラシャと呼ばれ、戦国時代に美しく咲いたガラシャ(神の恵み)の信仰です。玉(玉子)は明智光秀の娘であるため、細川家に嫁いだが、謀反人の娘として、波乱万丈の生涯をおくりました。玉に仕える侍女の中に、清原マリアというキリシタン信者の影響や高山右近との交わりを通して、キリシタンに導かれ、多くの試練の中洗礼を受け、敬虔な信仰を持つようになりました。洗礼名のガラシャはラテン語で神の恵みを意味します。

夫の忠興は、玉の洗礼に激怒し、信仰を捨てるよう迫りつらく当たるようになりましたが、玉の信仰は、揺るぐことなく「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と宣教師に励まされ信仰に固く立ち続けました。

徳川と豊臣の戦いが激しくなる中、徳川方についた細川忠興の上杉征伐の出陣の留守の間、西軍の石田三成が細川ガラシャを、人質にしようとしたとき、夫の命により、敵の軍門に下り、辱めを受けるようなときは自害せよと命じられ、最後は侍女たちを逃がしたのち、死を選び、家老の小笠原秀清に介錯を頼み殉教の死を遂げました。

細川ガラシャはカトリック教会において、「福者」としてたたえられ、内外の多くの教会で聖画としても描かれています。また、多くの書物や映画、ドラマなどにも取り上げられています。

三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」は必読に値する書物です。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」Ⅰヨハネ5:12

細川ガラシャが持ったいのちは、神のいのち、永遠の命です。


「神に受け入れられる信仰148」3月31日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、戦国時代のキリシタン大名、高山右近の信仰です。

カトリック教会においては、右近は、福者(死後その徳と聖性認められた信者)の称号を与えられその信仰が称えられています。右近は父母がキリシタンとなり、その影響で10歳で洗礼を受けました。洗礼名はジュスト(正義の人の意味)です。。高山右近は、戦国時代の中で信仰に固く立ち続けた武将でありました。摂津の国(大阪の北部)の領民からは慕われ、民の葬儀の時は、身分や地位の関係なく、自ら棺を担いで、悲しみ遺族を慰めたとの逸話が残されています。右近は、武将として文武両道に優れ、城の建築や城壁の築きなどの建築家でもありました。かつ千利休の七高弟として茶人としても優れていました。彼は人格の人として知られ多くの大名や領民を信仰に導きました。晩年、徳川家康によるキリシタン国外追放令の中、信仰を捨てるか、大名としてとどまるかのなかで、信仰の道を選び、マニラに追放され、最後はフィリピンの地で殉教者として天に召されました。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」マタイ16:26


神に受け入れられる信仰147」3月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、口に絵筆を加えて「花の詩画展」「鈴のなる道」

「かぎりなくやさしい花々」などの詩画集にて、美しい花を描く画家、星野富弘の信仰です。星野富弘は1946年群馬県の勢多郡に生まれました。群馬大学を卒業後、中学校の体育教師になりましたが、クラブ活動の指導中、鉄棒より落下し頸椎損傷で首から下の神経がマヒし手足の自由を失いました。

そのような中で口に筆を加え詩や絵を描き始めました。28才の時、キリストに出会い信仰を持ち、洗礼を受けました。その後結婚しクリスチャン画家として多くの作品を生み出しています。三浦綾子氏との対談で生まれた詩画集「銀色のあしおと」日野原重明氏との対談の「たった一度の人生だから」などは絵も美しく、対談の中で語られている信仰や愛は必読に値します。郷里の現・みどり市には「私立星野富弘美術館」が開館し、九州の芦北町にも、姉妹館の「芦北町立星野富弘美術館」が開館し、多くの人に勇気と感動を与えています。

「試練を耐え忍ぶ人はさいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」ヤコブ1:12


「神に受け入れられる信仰146」3月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「氷点」「塩狩峠」「積み木の箱」などのクリスチャン作家三浦綾子の信仰です。三浦綾子は1963年朝日新聞の1千万円懸賞小説公募に入選し、「氷点」が朝日新聞の連載小説として採用され、氷点ブームを起こし、71万部(当時)を売り上げ、その後映画やテレビでも放映され、大ベストセラーになりました。

三浦作品の特徴は、人間の生きる本質に触れ、原罪を扱い、愛と赦し、神の救いをテーマにしています。それは、自らの罪と病などを体験した人生の喜怒哀楽などが作品の土台です。三浦綾子は、キリストによる救いと平安を、そのまま作品としています。ある人は、三浦綾子は戦後最大の伝道者であるとも述べています。

私の知り合いでも、少なくとも4人の方が、直接作品を読み手紙を出し、返事をいただきキリストを信じてクリスチャンになっています。おそらく何千人という人が彼女の作品や生きざまに触れ、神なるキリストの出会いを受けたと想像されます。

「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

このみ言葉は、三浦綾子が伝えたい、福音メッセージです。

ぜひ、三浦綾子の作品をお読みください。また、近くの教会にお出かけください。

主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰145」3月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、クリスチャン詩人であり歌人である八木重吉の信仰です。八木重吉は1898年(明治31年)東京都南多摩郡堺村相原(現・町田市)に生まれました。神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)に、入学、高学年の時、メソジスト鎌倉教会のバイブルクラスに出席、1919年駒込教会にて、富永徳磨牧師より、キリストを信じ洗礼を受けました。内村鑑三とも交わりを持ち、無教会の信仰の立場を取り、「福音の研究」「聖地物語)などの信仰面の研究や詩や、絵画など多方面に活躍の場を設けました。島田とみと結婚し、二人の子供を授かり、その後は中高学校の英語教師として働き、外国作品の翻訳や自らも1800篇以上の詩を創作しました。重吉は29歳の若さで結核のため天に召されましたが、危篤状態の中で、キリストが見えると十字を切るしぐさで召されました。病気のため、教師を退任する最後の授業で「キリストの再来を信ず」との言葉を残しました。

現在重吉没後に「八木重吉詩集」が発行され、多くの人に親しまれています。また、郷里の町田市相原には「八木重吉記念館」が開館されています。

最後に重吉の詩を紹介します。

【うつくしいもの】

「わたしはみづからのなかでもいい わたしの外のせかいでもいい 

どこにか「ほんとうに美しいもの」はないのか それが敵であっても かまわない

及びがたくても よい ただ在るということが 分かりさえすれば

ああ、ひさしくも  これを追うにつかれたこころ 」

「心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう。」マタイ5:8


「神に受け入れられる信仰144」3月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「荒城の月」や「春」の作曲で有名な音楽家、滝廉太郎の信仰です。

滝廉太郎は、1879年(明治12年)東京で生まれ、大分県竹田市で育ちました。東京音楽学校(現・東京芸大)で学び、明治の西洋音楽黎明期における日本の代表的音楽家です。本科生の学びを終え、研究科に進み、1900年聖公会グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)で、キリストを信じ洗礼を、受けました。

滝廉太郎は童謡や文部省唱歌も多く作曲し「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」「お正月」などです。ちなみに、「荒城の月」はベルギーで賛美歌として歌われているとのことです。

残念ながら、彼は肺結核を患い、満23歳の若さで天に召されました。

滝廉太郎の曲には純粋で清く、心を打つような曲が満ちています。これは、神を信じた信仰からもたらされたものと、思われます。

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」ヨハネ1:12

 滝廉太郎は、この世では、短命でしたが、キリストを信じた命は永遠です。

 


「神に受け入れられる信仰143」3月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、18才の時、母親の死にショックを受け鉄道自殺をしたが、後にキリストの救いに預かり、牧師夫人になり、多くの人に希望と愛を注いだ田原米子の信仰です。彼女は、一命はとりとめたが両足と左手の三肢を切断、残る右手も3本の指となりました。病院内で再び服毒自殺をはかるが、助けられ、病院に訪問を続けた二人のクリスチャンにより信仰に導かれ、そのうちの一人田原昭肥(のちに牧師となる)と結婚し二人の娘の母となりました。田原米子は、次のように告白しています。「主を待ち望んだ時、神様は私を引き上げて下さり、新しく変えてくださいました。3本しかないと思っていた指が、3本も残っていると思えるようになり、なんでもチャレンジできるようになりました。皆さんも主に信頼して歩んでいきましょう。」

聖書の言葉です。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなったのです。」Ⅱコリント5;17

田原米子さんの明るい笑顔と弾んだ声が聞こえてくるようです。「主は素晴らしい。」と。

 


「神に受け入れられる信仰142」3月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ホーリネス運動で中田重治や笹尾鉄三郎と共に日本のリバイバルの中心となったレテー・B:カウマンの信仰です。「荒野の泉」の著者で、日本ではカウマン夫人と称され親しまれています。カウマン夫人は1870年生まれのアメリカ人で1901年、夫チャールズ・カウマンとアメリカのムーディー聖書学院で信仰の友となった、中田重治と共に宣教のため来日する。中田重治や夫チャールズ・カウマンと共に東洋宣教会を立ち上げ、ホーリネス運動の先駆けとなる。カウマン夫人は「荒野の泉」「続荒野の泉」などの著作を通して福音信仰を多くの人々に伝えました。

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」ヘブル12:1

 


「神に受け入れられる信仰141」3月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、明治学院の創設者であり、ヘボン式ローマ字の考案者で有名なジェームス・カーティス・ヘボンの信仰です。ヘボンは1815年アメリカペンシルベニア州で生まれました。1859年ヘボンは妻クララとともに、日本への宣教師、医師として横浜に到着しました。

 ベル、バラ、フルベッキなどの宣教師とともに横浜バンドと言われ、日本宣教の初穂となりました。彼は宣教師、医師としての働きと共に教育家として、明治学院やフェリス女学院などの創設、福音書の翻訳、和英辞典、聖書辞典の編集など多岐にわたりました。横浜市立大学医学部には功績をたたえて「ヘボンホール」という講堂があります。

ヘボンと妻クララは日本の国と人々を愛し、生涯の多くをささげた神の器です。

「人がその友のため自分の命を捨てること、これより大きな愛はない。」聖書


「神に受け入れられる信仰140」3月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アメリカ生まれの日本人と自称するほど、日本を愛した宣教師メルマン・ハリスの信仰です。彼は1946年オハイオ州で生まれ、1921年、74才で青山学院のハリス館で天に召されるまで、日本を愛し、日本人の救いや教育に全生涯をささげたのです。「少年よ。大志を抱け。」で有名な札幌農学校のクラーク博士の、後任として赴任したメルマン・ハリスは、佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造など、明治期のクリスチャンに大きな影響を与えました。

彼は、米国領事を兼ねて札幌農学校教授として赴任し、一期生の佐藤昌介、大島正健など15名、二期生の内村鑑三や新渡戸稲造など7名に洗礼を授けました。メソジスト教会監督として日本で働いた後も、アメリカにおいて、中田重治、笹尾鉄三郎、河辺貞吉、松岡洋祐などを信仰に導き、「ちいさき群れ」と呼ばれは、日本人から、ハリスは父、妻のフローラは母と呼ばれました。彼は青山墓地に葬られ、日本の土となりました。

7年後には、ハリスにより洗礼を受けた内村鑑三、新渡戸稲造などが墓参りに集い、彼の働きに感謝をささげたとのことです。

「良い地にまかれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人達です。」マルコ4:20

メルマン・ハリスは日本の地に一粒の種として蒔かれ、日本の地に落ちて豊かな実を結んだのです。


太一郎は当時は珍しかった「神に受け入れられる信仰139」3月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、森永製菓創設者の森永太一郎の信仰です。

太一郎は1865年佐賀県伊万里市に生まれました。生家が伊万里一の陶磁器問屋で、あったが父親が6才の時病死したため、幼少期を親せきに預けられ、貧しい少年期を過ごしました。24才の時、妻と長女を日本に残し、陶磁器販売のためアメリカに渡りました。多くの試練や苦難の中、無料宿泊所であった教会で、敬虔なクリスチャン老夫婦に導かれキリストを信じ、後に内村鑑三や新渡戸稲造に洗礼を授けたメリマン・ハリスから洗礼を受けました。 太一郎は当時珍しい西洋菓子の必要を感じアメリカでその製法を学びました。エンジェル(天使)を森永の製品のトレードマークとして、掲げました。「誠実な商売をする」を生涯のモットーとしました。それは彼の幼い時に叔父から教えられたことであり、更にキリストを信じた信仰から受けたものでした。関東大震災の時には、会社のミルクを30万人の人々に配布し、製品のお菓子もことごとく被災者救済のために配り、救援活動に全力で働き、誠実な森永太一郎の生きざまを示しました。この結果、森永製菓は、良き大きな影響を人々に与えたのです。

「ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼にいつくしみを彼に示されました。」Ⅰ列王記3:6

森永太一郎の持った信仰とは誠実な心と行動です。

 


「神に受け入れられる信仰138」3月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

 本日の「神に受け入れられる信仰」とは、太平洋戦争の始まりである真珠湾攻撃の空襲部隊の総指揮官で「トラトラトラ=奇襲ニ成功セリ」の電文を打った淵田美津雄の信仰です。

淵田美津雄は1902年(明治35年)奈良県北葛城郡に生まれました。海軍兵学校の海兵52期生として入学し、海軍軍人として歩みました。米英を相手に太平洋戦争の時、ハワイの真珠湾海軍基地を奇襲し、その成果により日本軍の英雄とたたえられました、敗戦後は一転して人生に行き詰まり、生きる目的を失いました。

しかし、神のあわれみの御計画により、元米国空軍の宣教師、ジェイコブ・デシェザーの書いた証のパンフレットを読み、キリストと出会い洗礼を受けました。

淵田は、戦争における、軍人としての務めとはいえ、自分の行いにより多くのアメリカ人の命を奪い、部下の多くの命を捨てさせたことに対し心からの悔い改めを持ちました。

改心後、自分にできることは真珠湾攻撃の指揮官であったことを、ありのまま語り、キリストの愛と赦しを受けたことを証しすることが使命と悟り生涯を神に捧げました。

アメリカには、戦後8回にわたり悔い改めと福音伝道に出かけました。最初は日米双方から、反対運動や多くの非難を浴びました。

しかし、回を重ねるごとに、淵田の伝道を通して多くの人々が、キリストの救いを受けました。クルーセードに出席した時の、私は大罪人からキリストの兵士に造りかえられたとの証しを、今でも、忘れることができません。

「キリストイエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。」Ⅱテモテ2:3

淵田美津雄は、キリストの十字架の赦しと愛で変えられたのです。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったのです。」Ⅱコリント5:17


「神に受け入れられる信仰137」3月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ヘボンに次いで、明治学院の2代目総長となり、プロテスタント宣教の先駆けの一人となった、井深梶之助の信仰です。

井深梶之助は1854年福島県会津に生まれます。家柄が代々藩主の小姓を輩出する家系であったため、最後の会津藩主松平容保の小姓を務めました。

戊辰戦争、会津戦争で敗れたため、廃校になったが会津藩校日新館の再開に伴い、横浜での洋学の学びを命ぜられ、米国の宣教師ブラウンと出会いました。

宣教師のブラウン塾では、英語教育と共に、ヘボンなどにも出会い、福音が伝えられキリストを信じました。 文語訳聖書(旧約)の編集ではヘボン、フルベッキ、植村正久などとともに、執筆者の一人として聖書翻訳に用いられました。

明治20年に創立した明治学院では、教授となり、ヘボン後の総長なり、キリスト教教育に用いられました。親族には、昨日紹介した、ソニー創設者の井深大がいます。

人生は出会いで決まると、よく言われますが、井深梶野助はブラウンやヘボンという宣教師と出会うとともに、キリストとの出会いを体験したのです。当時は、国賊であった会津藩士から神の国の住民であり、神の国の大使となったのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

 

 


「神に受け入れられる信仰136」3月16日

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、盛田昭夫と共にソニーの創業者となった井深大の信仰です。井深大は、1908年栃木県の日光に生まれました。

祖先は、会津藩の家老であり、親戚には白虎隊で自刃した井深茂太郎や、敬虔なクリスチャンとして信仰の生涯に生きた、明治学院二代目総長の井深梶野助、ハンセン氏病の看護に一生をささげた井深八重がいます。

彼は、早稲田大学生の時、恩師であるクリスチャン教授、山本忠興の影響で、キリストを信じ洗礼を受けました。旧日本軍の研究部門で、同じ部署にいた盛田昭夫と知り合い、敗戦後に東京通信工業(後のソニー)を立ち上げました。井深と盛田は、常に新しい発想、新しい技術を追い求め、次々に斬新なアイディアで新製品をヒットさせ、日本のみならず世界的な企業ソニーを生み発展させ今日に至っています。

「幻(ビジョン)のない民は滅びる。(堕落する)」新共同訳・箴言29:18

井深大が、常に持ち続けた新しい発想や働きの、根底に神から与えられた力と知恵があるように思えてなりません。

 


「神に受け入れられる信仰133」3月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、日本人初のジャーナリスト、自由学園、友の会の創設者で教育者の羽仁もと子の信仰です。

羽仁もと子は1873年(明治6年)青森県八戸市に生まれました。17才で、キリストを信じて洗礼を受けました。日本で初の女性ジャーナリストとして、家庭生活の合理化や、女性の意識向上と社会的立場の働きにも尽力し、思想家として働きました。婦人之友社を設立し「婦人之友誌」を発行して現在も、多くの方々に親しまれています。

教育では、新約聖書「真理はあなたを自由にする」ヨハネ8:32を、理念に自由学園を創立し、生徒が自らの「自労自治の精神」で労働なども取り入れた、文部科学省の学習指導要領にとらわれない独自の教育を行っています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」ヨハネ14:6

羽仁もと子は、いろいろな面で、今叫ばれている、日本女性活躍の先駆者でした。 


「神に受け入れられる信仰132」3月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アフガニスタンの医療活動やかんがい事業に生涯をささげ2019年12月4日、アフガニスタンのジャラーラーバードでテロリストにより命を奪われ、現地の土となった中村哲医師の信仰です。

彼は1946年福岡市に生まれました。西南学院中学生の時キリストを信じて洗礼を受けました。九州大学医学部を卒業し、脳神経内科医師として働くようになり、国内病院勤務の後、1984年日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンに派遣され、20年以上に渡りハンセン病の医療活動に従事しました。

その後アフガニスタンに移り、ペシャワール会の代表として、パキスタン・アフガニスタンの人々に仕えました。医療と同時に水問題の必要性を強く感じ、かんがい事業で水路を、自ら率先して造り、飲料水、農業用水、緑化の必要に大きく貢献しました。

中村哲医師の根底にあるのは、人々への愛と、平和の懸け橋となることでした。彼の肉体の命は73才で死にましたが彼の愛の働きは永遠です。歌手のさだまさしは「一粒の麦」という歌をもってその功績をたたえると同時に、これからも多くの実が結ばれる願いを歌っています。

「まことに、まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、死ねば豊かな実を結びます。」ヨハネ12:24


「神に受け入れられる信仰131」3月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、倉敷市にある大原美術館の創設者であり、倉敷紡績(現クラボウ。クラレ)の社長として旧大原財閥を築き上げた大原孫三郎の信仰です。

大原孫三郎は1880年倉敷市の大地主で、倉敷紡績を営む大原家の三男として生まれました。二人の兄が相次いで亡くなり孫三郎は大原家の跡継ぎが約束されたが、若い時は放蕩息子(ルカ15:11-24)のように、放蕩三昧の生活で、当時のお金で1万5千円(現在の金額で1億円)もの借金を作りました。東京専門学校(後の早稲田大学)も中退し謹慎の身となりました。そのような時、石井十次(日本初の孤児院を創設し、福祉の先駆者となった人物)に出会い、大きな感化を受けキリストを信じ洗礼を受けました。

石井の紹介で石井スエと結婚し、社会事業や、倉敷紡績の発展のため大きな貢献をするようになりました。会社の労働環境の改善に努め、福祉施設、社宅、社員の医療や託児所の設置など、神を信じた経営をするようになったのです。会社の利益のほとんどを日露戦争などで増えた孤児を救うため孤児院を支援したとのことが記されています。また、日本の文化発展のため。大原美術館を創設し、今日に至っています。このような考えや働きは、利益優先の重役や株主の強い反対にあいましたが、「わしの眼は十年先が見える。」信仰のことばで押し切ったとのことです。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1 孫三郎は真の信仰の人で、百年先を見ていたかのようでした。


「神に受け入れられる信仰130」3月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、十字架委員長と呼ばれた、旧社会党委員長の河上丈太郎の信仰です。河上丈太郎は国会内で、毎週木曜日午前8時10分から超党派の、クリスチャン議員による国会祈祷会を行ったリーダーでした。

彼は、1889年東京都港区で生まれました。父親が、熱心なクリスチャンで、5才の時から霊南坂教会の祈祷会に毎回出席していたとのことです。ちなみにこの教会の牧師は、岡山四聖人のひとり、日本の社会福祉の先駆者、留岡幸助です。父親は字が読めなかったが信仰深いクリスチャンで、丈太郎が学校に上がると毎晩丈太郎に、聖書を一章づつ読ませ、晩年には「立派な政治家になり、神と人のために尽くしてくれ」と遺言を残し召されました。

丈太郎は東京大学法学部を卒業し、当時の朝鮮総督府の役人として出世有望の職が与えられましたが、日本の武断政治を嫌い、民間の関西学院での教授の職を選びました。結婚は日本メソジスト教会監督の娘である、平岩未子と青山学院のハリス館で式を挙げました。

関西学院教授時代に賀川豊彦と出会い、政治家としての歩みを決断しました。当時の政治家を新聞記者は呼び捨てにする風潮がありましたが、彼の誠実さ、謙遜さの故、尊敬を込めて河上さんと呼んだそうです。死の直前には聖書を枕元に置き、賛美歌「また逢う日まで」を歌い、家族や牧師、親しい知人に囲まれ、天に召された話は有名です。告別式では、東大総長を歴任した友人代表の賀屋興宣が追悼文の中で、河上丈太郎は理想、信仰、正義、情熱、純情、善意の人であったとの言葉をおくりました。

「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」ヘブル13:7

今の時代、彼のような政治家の出現を祈る者です。


「神に受け入れられる信仰129」3月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、昭和初期の子供漫画家で、「のらくろ」を執筆した田川水泡の信仰です。田川水泡は、1899年東京都墨田区に生まれました。弟子には、「サザエさん」の作者長谷川町子がその一人としています。田川水泡の妻はクリスチャン作家の高見沢潤子です。高見沢潤子は、日本基督教団発行の「信徒の友」の編集長を長きにわたり務めました。田川水泡夫妻は、長谷川町子が弟子入りする際、町子の母親から、一つだけおねがいがありますといわれ、その条件は、日曜日に必ず教会で礼拝をささげるということでした。

水泡夫妻も町子と一緒に教会に行くようになり、キリストを信じクリスチャンとなりました。「のらくろ」には戦争に反対することや、他者に対する愛情などが、作者の意図として描かれています。田川水泡は、「鉄腕アトム」の作者、手塚治虫にも多大な影響を与えました。漫画というメディアを通して、社会に、特に子供たちに夢と希望を与えたことで共通しています。子供たちを愛する心を、神は喜ばれます。

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れてこられた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」マタイ19:13ー14

 

 


「神に受け入れられる信仰128」3月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「サザエさん」や「いじわるばあさん」などの作者である漫画家長谷川町子の信仰です。彼女は1920年(大正9年)佐賀県に生まれました。母親が熱心なクリスチャンであったのがきっかけで、田川水泡(漫画のろくろの作者)と共にメソジスト教会に行き信仰を持つようになりました。ちなみに田川水泡は後に敬虔で熱心なキリスト者になりました。戦後は無教会の矢内原忠雄とも交友があり、母、妹と共に聖書に根差した信仰に導かれ、後の作品にも大きな影響を持つようになりました。1972年に72才で天に召されましたが、死の直後に長年のサザエさんなどの家族漫画の功績が認められ、国民栄誉賞を受賞しました。

長谷川町子の作品には家族の健全な在り方や、人としての温かな愛やユーモアや真実で健康的な生活の歩みの大切さがにじみ出ています。これは神を信じる信仰のゆえであり、彼女の生きざまと思われます。

「主イエスを信じなさい。そうしたらあなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31

 


「神に受け入れられる信仰127」3月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、メンソレータムで有名な近江兄弟社創立の一人であり、同志社や明治学院、関西学院、神戸女学院などのチャペルや数多くの教会、病院、ホテル、会社、個人住宅など多数の設計建築したことで、有名なウイリアム・メレル・ウ”ォーリスの信仰です。彼は1880年アメリカに生まれ、日本で近江兄弟社を設立し、日本で最初の洗礼を受けた四人の華族婦人の一人一柳滿喜子と結婚しました。ウ”ォーリスは、同志社のカレッジソングをはじめ、多くの讃美歌も作詞作曲した音楽家でもありました。

ウ”ォーリスは信徒伝道者として近江ミッションを立ち上げ、社会実業家、建築家、設計士、教育家、音楽家などの働きで多くの人々にキリストの福音を伝えました彼は五タラント(賜物)を授かり、主人(神)のためにもう五タラントもうけた僕のようでした。

”すると五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントをもうけました。」その主人は彼に言った。「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」マタイ25:20-21

あなたに与えられたタラントを神と人のために用いてください。

 


「神に受け入れられる信仰126」3月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、戦前中国に宣教師として赴任し、中国人の教育に心血を注ぎ日本と中国の懸け橋となった清水安三の信仰です。安三は1891年滋賀県の高島市に生まれました。安三は中学時代、近江兄弟社の創立者ウイリアム・メレル・ウ”ォーリスの感化を受け同志社神学校に進学し新島襄に学びました。1917年中国へ日本人宣教師第1号の牧師として、遣わされ伝道や教育に励みました。2年後の大干ばつと飢饉で苦しむ799人の子どもを災害児童収容所を開設し救いました。さらに貧困にあえぐ女子を対象とした崇貞女子学園を創立し中国人、日本人、朝鮮の子どもが分け隔てなく学べる学校を創設し、国や民族を超えた懸け橋になりました。。当時700人の生徒が在学との記録が残っています。。更に天橋愛隣館という救済院(慈善病院)も開設し「北京の聖人」と呼ばれ多くの人々から慕われました。

敗戦とともに帰国し、同志社をモデルにした「基督教主義に基づいた国際的な教養人の育成」を建学の理念に桜美林学園を創立しキリスト教精神の教育を行い現在に至っています。桜美林学園は、フランス・アルザスの牧師フレデリック・オベリンの教育理念「学而事人(がくじじじん)=学びて人に仕える」をモットーにしています。安三の思いはどんなに働きが大きくなっても「隣人に寄り添う心」「どんな患難にあっても希望の光をともし続ける心」を大切に守り行うことです。

「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」マタイ23:11ー12


「神に受け入れられる信仰125」3月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「うさぎ追いしかのやま 小鮒釣りしかの川・・・」で歌われる「故郷」を作曲した岡野貞一の信仰です。岡野貞一は、ほかにも「紅葉」「春が来た」「春の小川」「おぼろ月夜」など沢山の人々に親しまれている唱歌や、全国で160以上の校歌を作曲しました。ちなみに名古屋市歌も彼の作品です。岡野貞一は15才の時、キリストを信じ鳥取教会で洗礼を受けクリスチャンとなりました。その後東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学し、卒業後は母校で教鞭をとり教授になりました。1918年には、文部省の小学校唱歌の委員となりました。唱歌に岡野の作曲したものや、賛美歌などで歌われている曲が多くみられるのはそのためであろうと思われます。

彼は音楽学校での働きとともに、約40年に渡り、東京本郷教会のオルガニスト、聖歌隊の指導者として日曜日には、一日も欠かさず神を賛美し、忠実なキリスト者として歩みました。岡野貞一は「故郷」の曲を自分のふるさと鳥取を思うと同時に、いやそれ以上に「永遠のふるさと天国」をイメージして造られたものと思われます。

イエスは言われた。「悔い改めなさい。天の御国は近づいた。」マタイ4:17

パウロも「私たちの国籍は天にあります。」ピリピ3:20と語っています。


「神に受け入れられる信仰124」3月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、児童文学者で翻訳家、NHKの朝ドラ花子とアン」のモデルとなった村岡花子の信仰です。彼女は1893年山梨県甲府市に生まれました。熱心なクリスチャンであった父親の希望で2才の時、甲府メソジスト教会で幼児洗礼を受けました。はな(本名)が5才の時上京し東京で暮らすようになり、はな10才の時、東洋英和女学校に編入学しました。東洋英和女学校において多くのクリスチャン教師、宣教師と出会い信仰を深め、文学を志し、翻訳の働きを始めるようになります。主な翻訳書には「赤毛のアン」「フランダースの犬」「あしながおじさん」「王子と乞食」「幸せな王子様」「ふしぎな国のアリス」「小鹿物語」など多くの人々に親しまれている作品が多数あります。1955年ヘレン・ケラー来日の際は、通訳者として日本各地に同行し、ヘレン・ケラーの働きをサポートしました。

信仰面では、多くのキリスト教文学の翻訳や、東洋英和女学校教師、キリスト教婦人矯風会会長、婦人宣教師の日本語教師など多岐にわたり活躍しました。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」Ⅰペテロ4:10

村岡花子は今、叫ばれている日本女性活躍の先駆者でもありました。

 


「神に受け入れられる信仰123」3月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、2015年のNHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロイン広岡浅子の信仰です。1849年京都で生まれた浅子は明治を代表する女性実業家として活躍しました。ペンネームは九転十起生(きゅうてんじっきせい)で七転び八起きを上回る、何度倒れても起き上がる不屈の歩みを現しています。彼女は当時の女性に教育が必要であることを実感し、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵(クリスチャン)の著書「女子教育」を読み、また成瀬の情熱や人柄にも共感し、日本女子大学の創設に深くかかわりました。日本女子大学創設後も、毎年の夏、御殿場の別荘で若い女性を集め、合宿勉強会を開き、その参加者には、市川房江(女性参政権運動のリーダー)や村岡花子(赤毛のアン・クリスマスキャロルなどの翻訳者で、NHKの朝ドラ花子とアンのモデル)などがいます。彼女はキリストを信じて洗礼を受けて後、事業家としてだけでなく、女子教育、社会事業、教会事業(大阪YWCA創設の働き)などにも貢献しました。彼女は「私は遺言はしない。普段言っていることが皆、わたしの遺言です。」との言葉を残しています。使徒パウロの言葉のようです。「最後に兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」ピリピ4:8-9


「神に受け入れられる信仰122」3月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、内村鑑三の弟子で、日本初の弁護士出身の第7代最高裁判所長官でアガペー(神の愛)長官と呼ばれた藤林益三の信仰です。著書には、キリスト信仰から生まれた多くの書物があります。「涙とともに種まくものは喜びとともに刈り取らん」「裁判官の良心」

「法と信仰に生きて」「法の支配」「法律家の知恵・法・信仰・自伝」「契約の民と非契約の民」などです。彼は、弁護士の時も最高裁長官の時も、日曜日には「聖書研究会」を続け、神への礼拝と聖書の学びを生涯行いました。人間が、人間を裁くことはできませんが、「法に支配」のもとで裁判することは必要です。なぜなら法の支配のないところには、無秩序が生まれるからです。

すべてのことを、「正義、公正、公義、」をもって審判なされるのは、真の神ご自身のみです。

藤林益三は、神への信仰と人々への愛の心で裁判されたので「アガペー長官」と呼ばれました。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません。」Ⅰコリント13:4ー8


「神に受け入れられる信仰121」3月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の孫娘で孤児院エリザベス・サンダースホームの母となった沢田美喜の信仰です。沢田美喜は戦後の時期、3000人にも及ぶ、日本女性とアメリカ進駐軍兵士(GI)との混血孤児救済のため、エリザベス・サンダースホームを自ら創設し、孤児の母として愛の生涯を生きました。彼女は、三菱財閥の娘として生きたのではなく、クリスチャン外交官の沢田廉三と結婚し、神の家族として、神の愛と信仰に生きました。私財をささげるとともに、多くの人々に孤児の救済を訴えキリストの愛で子供たちを養い育てました。当初は日本政府やアメリカ軍からも強く反対されましたが、後には日米の多くの人々から認められ、ホームを巣立った孤児たちから、美喜はママさん(お母さん)と呼ばれ、皆から慕われ愛されました。

「「まことにあなたがたに告げます。あなたがたが、これらの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのはわたしにしたのです。」マタイ25:40

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ルカ19:10

沢田美喜のように、失われた小さい者をイエス・キリストは、今もあなたや私を通して探しておられます


「神に受け入れられる信仰120」2月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、韓国孤児救済のために生涯をささげ「木浦の母」と呼ばれ多くの韓国民より慕われ愛された田内千鶴子の信仰です。田内千鶴子は1912年(大正元年)高知市で生まれました。1938年日本統治時代の朝鮮全羅南道木浦でキリスト教伝道師と結婚し、孤児院共生園を夫と共に、立ち上げ働きました。朝鮮戦争で夫が行方不明になった後、3000人の孤児を守り育てました。日韓合同の制作映画「愛の黙示録」として、千鶴子の民族を超えた愛の働きが、映画化され、多くの人に感動を与えました。56才で、天に召された葬儀は木浦市民葬とされ3万人もの人々が参列し、彼女の死を悼み功績を称えました。彼女は孤児という小さな失われた羊を愛するとともに、日韓の愛の懸け橋ともなりました。

「これらすべての上に愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また感謝の心を持つ人になりなさい。」コロサイ3:14-15

日本と韓国、すべての人と人、すべての国と国の間に田内千鶴子が持ったキリストの愛が必要です


「神に受け入れられる信仰119」2月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、日本最初の女性医師、荻野吟子の信仰です。吟子は1851年現在の埼玉県熊谷市にて誕生。明治8年(1875年)東京師範学校(お茶の水女子大の前身)に入学し、首席で卒業。当時女医の必要性を最初に訴えて、自ら医学の道を志し、女医の先駆者(先駆け)となりました。聖書に救い主・イエス・キリストの先駆けとして道を整えたバプテスマのヨハネが存在しますが、先駆けとは、まだ道のないところに道を整え、築く働きです。現在、日本で女性活躍が叫ばれていますが、明治の時代に荻野吟子がその人となったのです。彼女は35才でキリストを信じ洗礼を受けました。吟子の中には、キリストを信じて生まれた病の人(特に女性)への愛と社会改革への信仰があったのです。後に彼女は、牧師と結婚し、伝道の働きもしました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」マタイ7:7-8 荻野吟子は、女性に医学の道を開いた先駆けです。


「神に受け入れられる信仰118」2月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、津田塾大学の創設者津田梅子の信仰です。津田梅子は明治4年(1871年)明治政府の黒田清隆が女子教育の必要性を覚え、米国に女子留学生を5名派遣した時に、満6歳の最年少でアメリカに渡りました。彼女はクリスチャンホームの家庭に預けられ、その感化もあり、キリストを信じて8歳で洗礼を受けました。英語、ラテン語、フランス語など語学とともに、文学、自然科学、心理学、芸術など多岐にわたり教育者としての学びを習得しました。17才で帰国したのちも、更に学びの必要を覚え再びアメリカに留学しました。日本女性の教育の必要を痛感し、津田梅子は「女子英学塾➡現在の津田宿大学」を創設して初代塾長となりました。

令和6年(2024年)には、梅子の肖像が五千円紙幣に使用されるとのことです。

現在、多くの女性が津田塾大学で学び、社会に貢献して、梅子のビジョンが達成されていることは、とても喜ばしい限りです。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」ピリピ2:13


「神に受け入れられる信仰117」2月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、内村鑑三の弟子で、宮沢賢治とも交流があり、「雨にも負けず」のモデルともいわれた斎藤宗次郎の信仰です。内村の最も忠実な弟子の一人で内村の死の直前には隣室に泊まり込み、日夜看病をしました。斎藤宗次郎は、キリストを信じ、軍国主義に反対し、非戦論を唱え、「徴兵も拒みました。」その結果小学校の教員資格を国や県からはく奪され、非国民と迫害されました。しかし、彼の信仰は、益々強くされました。その後は新聞配達店を取り次ぎ、雨の日も、風の日も、暑さの日も、寒さの日も、東北の厳しい寒さや、貧しさの中で、朝早くから、新聞を配達し、病人や貧しい人を助け、子供たちをかわいがる生活を続けました。ポケットにはいつも子供たちへの飴玉やお菓子があったそうです。画家の中村不折は、彼を「花巻のトルストイ」と呼びました。柔和さの中にも、キリストへの強い信仰を兼ね備えていました。宮沢賢治とも親しく、「雨にも負けず」の詩のモデルという説があるのは、そのためです。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」マタイ5:3-5(山上の垂訓より)斎藤宗次郎は、地上にいながら、天国人とされたのです。


「神に受け入れられる信仰116」2月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ホーリネス運動でリバイバリストである中田重治の信仰です。中田重治は明治、大正、昭和初期に日本での大リバイバルと言われたホーリネス教会の監督、伝道者として、神に用いられた器です。徹底した聖書信仰からもたらされ熱烈ともいわれる働きで、沢山の人が救われ、多くの教会が生み出され、日本のプロテスタント教会における、最大のリバイバルと言われています。彼の息子の中田羽後は、聖歌や讃美歌を創作した教会音楽家としても有名です。反面、晩年には、偏った再臨信仰で、ホーリネス教会は、いくつもの教団に分裂してしまいました。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28 人間は、神と違い完全ではありません。そのような中で、中田重治の働きを通して、多くのクリスチャンが救われ、万事を益に変えて下さり、現在も多くの働きが継続されていることは感謝に耐えません。神に喜ばれる信仰とは、良き面は受け入れ、足らない面は反省することが大切です。私たちも、ホーリネス運動の良き面「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2の信仰に固く立ちたいものです。


「神に受け入れられる信仰115」2月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、農学博士で、後に北海道大学初代総長になった佐藤昌介の信仰です。彼は札幌農学校の1期生です。クラーク博士の伝道でキリスト者になった佐藤昌介は同じ郷里岩手花巻出身の2期生の新渡戸稲造に福音を伝え、その後も稲造の信仰に関わり、良きキリスト者に育てたのです。2期生の中には内村鑑三や多くのキリスト者が生まれました。イエスキリストの弟子たちが、家族や友人を導いたと同じようでした。”ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。・・・ピリポはナタナエルを見つけ

て言った。「私たちはモーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人でイエスです。」ヨハネ1:40-45” いつの時代でも、家族、友人、知人の救いは神の御心です


「神に受け入れられる信仰114」2月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、5千円札の顔絵にもなった新渡戸稲造の信仰です。新渡戸稲造は内村鑑三、宮部金吾とともに、札幌農学校(クラーク博士の少年よ大志を抱けで有名、現北海道大学)の三秀才と呼ばれました。内村たちとともにキリストを信じ生涯、神と人に仕えました。「武士道」の本を書き、翻訳して欧米に日本文化を知らしめ、キリスト信仰と武士道の共通点なども知らしめました。彼は国際連盟の事務次長の要職につき、国際間の紛争解決や、相互理解の働きに尽力しました。彼はアメリカ人女性メアリー・エルキントンと結婚したこともあり「われ、太平洋の懸け橋とならん。」とアメリカをはじめ、すべての国々との交流の必要と平和の大切さを訴えましたが、戦前の日本で受け入れられず、彼の死後太平洋戦争に突入したことは残念でなりません。新渡戸稲造は、キリスト者として政治や、教育、福祉を、いつも神の視点でとらえていました。キリストを信じる以前の彼は、大変な激情かであり、争いが多くありましたが、キリストにより造り変えられ、生涯、謙遜で柔和な笑みの絶えない人物になりました。それは、世界の国々との関係でも同様でした。「心の貧しい(謙遜)者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。・・・柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。・・・平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」マタイ5:3-9 


「神に受け入れられる信仰113」2月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、日本救世軍の創設者である山室軍平の信仰です。山室軍平は、「岡山四聖人」と呼ばれた一人で、石井十次、留岡幸助、アリス・ベティ・アダムスとも、親しい交わりをもっていました。山室は、1872年岡山県の現新見市に生まれ、16才の時、キリストを信じ洗礼を受ける。17才で、新島襄をしたい、同志社普通学校(現同志社高校・大学)に学び、5年の在学の後、自由主義進学への反発から同志社を去る。石井十次の岡山孤児院にも身を寄せたが、翌年東京にて、運命の出会いで救世軍の働きに触れ入隊し日本人最初の救世軍士官(伝道者)となる。その後、社会福祉事業、公娼廃止運動など、社会の弱者と呼ばれる人々に福音を伝え、「平民の福音」は多くの人々に愛読されるなど多方面で活躍する。当時の軍部より救世軍は反国体との理由で解散され、「平民の福音」も発刊禁止となる。山室軍平は昭和15年天に召されるが、棺には「勝利・凱旋」縫い取りされた布で包まれ多くの人々に惜しまれた。戦後、救世軍の働きは戦後の日本の苦難、貧しさの中キリストによる救いと希望を与え、「世の光・地の塩」として日本の復興に寄与する。彼の家族、子供たちは学者、婦人運動家伝道者として活躍、長女の民子「婦人人主クラブ発起人」次女の善子「友の会中央委員、自由学園教師」長男の武甫「救世軍伝道者、賛美歌作家」その妻は作家の阿部光子である。山室軍平は真のキリストの兵士であった。


「神に受け入れられる信仰112」2月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、内村鑑三や新渡戸稲造に師事し、東大総長を2期6年務めた矢内原忠雄の信仰です。矢内原忠雄は1893年(明治26年)愛媛県で四代続いた医者の家に生まれた。旧制第一高等学校(東大の前身)時代に、内村鑑三や新渡戸稲造の、影響を受け無教会主義のキリスト教徒になる。新渡戸稲造が国際連盟事務次長に就任して退官したため、後任として、東京大学の経済学部助教授として就任する。日本政府や軍部の盧溝橋事件や、南京事件では国家は正義が無ければならないと、論文を発表し、「正義とは弱者の権利を、強者の侵害圧迫から守ることであり、国家が正義に背反したときは、国民の中から批判の声が出なければならない。」この論文の考えは、学部内で非難の的になり東大を退官することとなった。また、国や世間からも非難された。辞職後は、自宅で聖書講義をしたり、「嘉信」という福音ニュースを発行し、信仰の道を歩む。終戦後に東大教授に復帰し南原繁の後任として、キリスト者の二代続けての東大総長になる。矢内原の教育は政治や国家に影響されず、教育の独立性を重んじた。晩年は、講演活動などで、自らの信仰と体験を語る者となった。1960年の北海道大学での講演では、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに出て行っていただきたい。畑は広く、働き人は少ないと。」イエスの言葉を用いている。また、翌年のNHKテレビ放送で「子供のために」と題して、「人生というものは、人を従えることが成功のように思われがちであるが、実はそうではなく人に仕えることが人生の本当の意味である。」と述べている。二人の息子は兄、伊作が慶応大学経済学部名誉教授、弟、勝が作新学院大学長として、父と同じ教育家として、神と人に仕えた。多くの先人のキリスト者の歩んだ、道に学び歩みたいものである。

 


「神に受け入れられる信仰111」2月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「岡山四聖人」と呼ばれた者の一人、日本の社会福祉の先駆者、感化院教育の実践家である留岡幸助の信仰です。彼は18才の時、岡山で金森通倫の保護の元、上代知新牧師より洗礼を受ける。20才で同志社英学校(同志社大学の前身)神学部に入学し新島襄の教えを受け、徳富蘆花とも交友を結ぶ。同志社卒業後、牧師や教誨師の働きをしたのち、アメリカに留学し、福祉の働きを学び帰国、東京霊南坂教会にて、「基督教新聞』の編集に関わる。日本各地に家庭学校、児童自立支援施設(旧救護院)を設立する。この働きとしては、当時珍しい民間経営で鉄格子や塀、柵などで閉鎖隔離しない「開放処遇」形態をとった。これらは、キリストの愛と信仰に基づいた福祉が根底であった。それは、自らの少年時代非行の経歴があった留岡がキリストの救いにより立ち直った証しであった。「不良少年は憎むべきものではなく、親の愛情を受けられなかった憐れむべき者」という考えからであった。留岡は、感化院を家庭学校と命名し、教師と生徒の関係は親と子供、庭師と植物の関係にたとえ、庭師は植物の性質をよく知らなければ育てられないので家庭学校と呼んだのである。その卒業生は社会復帰し改善率は7割を超えたという画期的な働きであった。晩年、彼の夢は実現し、北海道に広い原野を国より払い下げてもらい、そこに理想とした北海道家庭学校を設立したのである。

この家庭学校は三つの柱を理念とした。1・家庭教育。教師と生徒は家族であり親子の関係である。2・大自然の中での教育。土や水、自然を愛し、汗を流し労働に励む教育である。3・宗教教育 熱心なキリスト教徒であった留岡幸助であるが、宗教を押し付けるのではなく、二宮尊徳などの報徳の精神も尊重し、生活の中での信仰を育てたのである。

まさにキリストの模範に倣う生涯であった。


「神に受け入れられる信仰110」2月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、日本で最初の孤児院の創設者であり、「児童福祉の父」と呼ばれた石井十次の信仰です。「山室軍平、留岡幸助、アリス・ベティ・アダムスとともに「岡山四聖人」と称されている一人です。石井十次は1865年(慶応元年)宮崎県に生まれ、岡山県甲種医学校(現岡山大学医学部)に在学し、19才の時、岡山キリスト教会牧師、金森通倫より、キリストに導かれ洗礼を受ける。信仰による福祉の道か医学の道かに進路に悩むが、孤児救済の思いが強く、福祉事業の先駆者としての道を歩む。明治24年の濃尾地震、翌年の24年と25年の岡山大洪水などで多くの孤児が生まれ、その救済で岡山孤児院を創設する。明治39年の東北地方の冷害による、大凶作により、多くの農家が破産したため、救済事業で825名の子どもたちを保護し、最大1200名の孤児たちを養うほどであった。「時代教育法」と題して、「幼児は遊ばせ、子は学ばせ、青年は働かせる」をモットーとして、農業や、技術(大工、左官、散髪、印刷、製本、機織り、裁縫など)の習得、更に音楽活動や里親制度、広い土地を手に入れ開墾し、理想郷づくりで互いに支え合う村づくりなども取り入れ、日本の福祉授業の先駆けとなったのです。現在も社会福祉法人石井記念友愛社事業所として様々の福祉の働きが継続されています。「神は愛です。」


「神に受け入れられる信仰109」2月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、社会改良家であり、刑務所改革に生涯を献げた女性、エリザベス・フライの信仰です。イギリスの裕福な家庭に生まれた彼女は12才の時に母親を失い、生活は一変しました。人生の苦しみや悲しみを体験した心の中、17才の時キリストに出会い、罪の悔い改めに導かれ魂の救いを得たのです。彼女は自らの生活に規則を設け、日々神の性質に変えられていきました。

1・時間を決して無駄にしない。 2・決してウソをつかない。 3・人には親切を尽くす。 4.いつも質素倹約に努める。 5・何をするにも神に頼り最善を尽くす。

 20才の時、信仰深いジセフ・フライとの結婚に導かれ、夫婦で神と人々に仕える伝道者となりました。33才の時刑務所の働きに導かれました。当時の刑務所は監獄と言われ、罪を犯し失敗してしまった人々、政治犯や宗教犯などが、様々な理由でただ罰の執行のために、多くは死を待つばかりのような所でした。フライは囚人たちに、聖書を教え、キリストの福音を伝え、仕事や教育を施し、更生の道へと刑務所を変えていきました。現在の刑務所の土台を作ったと言っても過言ではありません。イギリスだけではなく、ロシア、フランス、イタリアなど世界の国々の刑務所も、彼女の働きを模範として、刑務所改革を行いました。

イエスは「これらの最も小さき者にしたことは私にしたこと、これらの最も小さき者にしなかったことは、私にしなかったことである。」と言われました。最も小さき者とはだれでしょうか。

「あなたがたは、私が空腹であったとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であった時、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」マタイ24:35-36

あなたや私の周りにいる人たちがその人です。私たちも、自分にできることをもって、人々を愛しましょう。


「神に受け入れられる信仰108」2月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アメリカの大伝道者と言われたⅮ・L・ムーディーの信仰です。ムーディーは幼い時に父親を亡くし、しかも9人兄弟の6番目の子どもとして、とても貧しい家庭で育ちました。しかし、母は主を信頼し、毎日子供たちに聖書を読み聞かせ、日曜日には教会で礼拝をささげました。

彼は18才の時、十字架の救いと罪の赦しの話しを聞き、キリストを信じて救いを受けました。救われた喜びや感謝を何とかして、人々に伝えたいと、日曜学校の働きをはじめて子供たちに福音を伝えました。23才の時、神にすべてを献げて、伝道者としての道を歩み始めました。25才で結婚し、更にサンキーという福音歌手と協力してクルーセード(大衆伝道の集い)の働きに奉仕しました。「ムーディーは福音を説教しサンキーは福音を歌う。」と言われ全米だけでなくイギリスにも出かけ、彼らの行く所には、何千、何万という人々が押しかけキリストの救いを多くの人が受けました。日本の松江で伝道し、キリストの貴公子と言われたバックストンもその一人です。ムーディーは、無学で高等教育を受けた者ではありませんでした。しかし、十字架の恵み、罪の悔い改めをストレーに伝えました。彼はいつも神に祈り、聖霊に満たされ、聖書にのみ信頼し、人々を心から愛する伝道者でした。

「あなたがたは(わたしたちは)キリストの香り、キリストの手紙、キリストの大使です。」

Ⅱコリント2:15、3:3、5:20


「神に受け入れられる信仰107」2月11日

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、世界の説教者最大の人と呼ばれたC・H・スポルジョンの信仰です。彼は、祖父も父も牧師のクリスチャンホームに生まれ、父の厳しい愛と母の優しい愛に満ちた家庭で育ちました。16才の時に、罪の自覚が目覚め、神の救いを求めていましたが、救いがわかりませんでした。冬の寒い吹雪の聖日に、近くの小さなメソジスト教会に出かけました。12名ぐらいの人が、集まり牧師ではなく信徒の説教でした。「地の果てなるもろもろの人よ。わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。」イザヤ45:22のみ言葉でした。さらに、スポルジョンを見つめて「若者よ。イエス・キリストを見よ。見よ!見よ!見よ!ただ見上げよ。この他に君のすべきことは何もない。」と繰り返し「ただ見上げて救いを得よ。」この言葉をスポルジョンは神の言葉として、受け入れ明確な救いの体験を持ったのです。彼は17才で牧師の召命を受け、当時もっとも堕落した村の教会に派遣され、そこで多くの人々が救われ、改心して正しい生活に変えられました。更に20才になった年に、ロンドンの「ニュー・パーク・ストリート教会」という大教会に赴任し、閑古鳥が鳴くような教会が、毎週礼拝が満員の人々で埋め尽くされたのです。それは、彼の説教が聖書からの真理や恵みを、だれでも理解できるよう、純粋に語った信仰と愛の結果でした。27才の時、この教会はロンドン中央大会堂として、建て替えられ6千名収容の席が、主を求める人々で満席になりました。30年間も説教は続けられ、13179名の人が救いに加えられたと記述されています。スポルジョンは、高等教育を受けたものではありませんでしたが、多方面にわたり知識と信仰の深さは、多くの民衆のみならず、政治家、教育者、学者、実業家、貴族などが集いました。

「神が、私たちに下さったものは臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。」Ⅱテモテ1:7


「神に受け入れられる信仰106」2月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、救世軍の創設者であるウイリアム・ブース大将の信仰です。ブースは、15才の時、日曜学校の中で、明確な罪の悔い改めを通してキリストの救いを体験し、自らの生涯を神に献げました。26才の時、敬虔な信仰者であるキャサリンと結婚し、更に救霊の働きに専心しました。キャサリンは後に、良妻賢母の鑑と言われ、多くの人々から慕われました。ブースは、当時イギリスの貧民街などで、社会的に失われている人々に接し、彼らを救い、養い、育てるには、軍隊的組織の働きが必要と感じ、1865年に救世軍を創設しました。

魂の救いとともに、社会的弱者の経済や、仕事、福祉などの必要にも力を注ぎ、全世界に救世軍の働きを拡大しました。日本にも救世軍を創設し、山室軍平を、リーダーとして各方面でキリストの福音宣教に励みました。社会鍋などで関東大震災や戦後の日本の復興に大きく貢献しました。晩年ブースは視力を失いましたが、83才の誕生日に、「神の光を受けていない一人の暗い魂がある限り私は戦う。私は最後まで戦う。」と叫びました。

「キリストイエスの良い兵卒としてわたしとともに苦しみを共にしてほしい。」Ⅱテモテ2:3 

ブースはまさしくキリストにある勇敢な兵士でした。


「神に受け入れられる信仰105」2月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、立教大学、立教女学院の創設者であり、多くの教会設立や教育事業で神の福音を伝えた、聖公会宣教師チャニング・ウイリアムズの信仰です。彼の墓碑には「道を伝えて己を伝えず」と記されているように、ウイリアムズは自分の働きや功績、自分自身について、知られることを嫌いました。老後には多くの人に世話になるといけないと言い、財産を日本の働きにささげ、自らの資料等も焼いて、米国に帰国したのです。それゆえ、同時期に日本伝道に貢献したブラウン、ヘボン、バラなどに比べ知名度は低く、あまり日本人に知られていません。

彼は、24才の時中国に宣教し、30才の時、1859年(安政6年)日本最初のプロテスタント宣教師として日本の地に生涯をささげたのです。当時はキリシタン禁制の時代で、表立っての宣教はできませんでしたが、生活の行いをもって伝道しました。聖公会の主教として、自分の給与が7~800円のなか、みずからは、月15円程度で独身生涯を貫き、残りはすべて宣教や貧しい人々の必要に献げたと記録されています。そして82才で天に召されました。

日本のミッションスクールの教育や福祉、教会での初穂となり土台となったのは、このような多くの宣教師や、キリスト者の愛と信仰の種が蒔かれているのです。

「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに、忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」マタイ25:21 

今、天でキリストのお褒めの言葉を受けているに違いありません。

私は近い将来、日本に聖霊の御業が現われ、彼らの蒔いた種が花を咲かせ、豊かな実を結ぶことを確信し、期待し、祈るものです。


「神に受け入れられる信仰104」2月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、世界最初の女子修道院を創設したアッシジの聖クララの信仰です。アッシジは、聖フランシスコ(フランシス)が存在したイタリア中部にある美しい町です。現在の人口は、約2万8千人ほどです。1194年誕生したクララは、とても裕福な貴族の家庭に育ち、心も容姿もとても美しい女性でした。

しかし、彼女は、フランシスコの神と人を愛し仕える生き方に感動と影響を受け、自分が本当に求めていたものを見出し、フランシスコの弟子となり、修道院に入りました。すぐに妹のアグネス、母と末の妹も続き、さらに女性が増えるにつれ、修道院の必要が起こり、世界最初の女子修道院設立者になったのです。そこでは、清貧生活の中、祈りをささげ、神と人々に仕える愛の奉仕者になったのです。特に貧しい人、病いの人、弱者と言われる人たちに献身的に仕え、カトリック教会では、聖クララと呼ばれています。クララは、この世の富や身分や誇りよりも、御国の富や幸いに生きたのです

イエスは言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を捨てる者はそれを失い、わたしのために、自分の命を失う者はそれを見出すであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を存したら、何の得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか。」マタイ16:24-26

皆が、クララのようでは、ありませんが 神は、一人一人に最も良き道を歩ませてくださいます。

多くの信仰の偉人と呼ばれた人々の信仰の精神は受け継ぎたいものです。


「神に受け入れられる信仰103」2月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アメリカ・インディアンへの宣教に生涯をささげたディビット・ブレイナードの信仰です。ブレイナードの日記として多くの人に、愛読され、そこには愛の宣教の証しが記されています。ブレイナードは祈りの人でしたが、体は強い者ではなく、むしろ弱い人でした。しかし、いつも静かな森や川のほとりで、何とかしてインディアンに福音を伝えたい、彼らを救うために私を用いてくださいと断食や徹夜の祈りで神を求めました。彼の情熱は神から与えられたものでした。幾多の困難があっても、益々失われ滅びゆく魂のために熱く燃えるのでした。彼は、29才の若さで天に召されました。しかし、短くても彼の後姿を見て、多くのキリスト者が宣教の生涯に召されたのです。

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24

ブレイナードは、まさに一粒の麦となったのです。


「神に受け入れられる信仰102」2月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、使徒ヨハネの弟子であり、後にスミルナ教会の代表監督になったポリュカルポスの信仰です。聖人と言われたポリュカルポスの最後は殉教の死でした。

彼を死刑にする執行官が、「もしお前がキリストを呪い信仰を捨てるならば赦してやる。」と迫った時、ポリュカルポスは、次のように告白しました。「私は、86年間、主イエス・キリストを信じ、仕えてきたがキリストは、ただの一度もわたしを不幸にせず、いつも恵みと良きことをしてくださった。どうしてこのような愛なる主を捨てることができましょう。」

そこで、執行官は、それならば、猛獣の餌食にするか、火で焼き殺すと叫びました。しかし、彼は「からだを殺しても、魂を殺すことのできないものを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」マタイ10:28 死を目の前にしても、彼は喜びに満たされ、満面の笑みをもって、天の御国に凱旋したのです。

キリスト教の歴史は、迫害の歴史、多くの殉教者の愛と信仰の血が流されているのです。なぜならば、十字架の死の後には、復活の命が約束されているからです。ハレルヤ(主をほめたたえます)


「神に受け入れられる信仰101」2月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、天路歴程を書いたジョン・バンヤンの信仰です。

本の本と言われる聖書の次に、多くの人々に読まれた本は天路歴程と言われています。

ジョン・バンヤンは、結婚した妻が敬虔な神への信仰者であった影響で、聖書に触れ。それまでの罪深い生活を悔い改めて神を信じました。彼は真剣に聖書に取り組み、神を熱心に求めました。

当時のイギリスは清教徒(ピューリタン)が勢力を強め信仰的にも政治的にも力を持ち、清教徒のバンヤンは教会で説教をするほどでした。

しかし、その後、王政復古となり国教会の力が強くなり、バンヤンは聖職者の資格を持たず、説教をした罪で12年間の投獄生活を送りました。二度目の獄中生活の中で書かれたのが天路歴程(天国への旅)です。彼は、無学で、この世的には平凡な人物でしたが、その内容は非常にわかりやすい文章で、しかも彼自身の信仰体験から与えられたキリストの愛と命にあふれた物語で、多くの人々に信仰のすばらしさ、天の御国の感動を伝えるものとなりました。天路歴程を読んで救いに導かれた人は、何万、何十万でしょう。ぜひあなたも、一度天路歴程をお読みになることをお勧めします。

「み言葉が、開かれると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」詩篇119:130


「神に受け入れられる信仰100」2月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ヒマラヤの聖者と言われたインドのサンダー・シングの信仰です。サンダー:シングは、1889年北インドの厳格なヒンズー教徒の家庭に生まれました。彼は、幼い時よりヒンズー教の中に救いを求め、熱心に求道しましたが、求めても求めても、救いの確信が得られず、苦しむばかりでした。ついに、死を覚悟して、「ああ、神よ。もし真の神が、おられるならば私に現れてください。そうでなければ、私は死を選びます。と祈った時、神の栄光が現われ、イエス・キリストに見えるような姿が現われて「おまえはいつまで私を苦しめるのか。私はお前のために十字架についたのだ。」とのキリストの御声が聞こえ、聖霊によりイエスを信じたのです。彼の生涯は奇跡の連続でした。家族や、ヒンズー教徒の迫害で、何度も死にかけましたが、そのたびに奇跡的な救いと神の守りを受けました。サンダー:シングはインド全土および東南アジアの諸国、そしてはチベットにまで渡り、多くの人々をキリストによる救いに導きました。最後はチベットで消息が不明になり殉教したと言われています。まさに、使徒パウロの生涯を思い起こすようでした。

「ただ、聖霊があなたがたに下られるとき、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう。」使徒1:8

ヒマラヤの聖者と言われた、サンダー:シングはキリストの証人でした。


「神に受け入れられる信仰99」2月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アメリカ政府により、19世紀半ばハワイのモロカイ島に、集団隔離された、ライ病(ハンセン病)患者のために生涯をささげたダミアン神父の愛と信仰です。

当時は、全世界においてハンセン病は、不治の病として最も恐れられ、家族や親しい人々からも遠ざけられ、嫌われてもいました。心身ともに傷つき、病に侵されたハンセン病患者は、死を待つばかりの運命でした。ダミアンは、「だれが、彼らをあいし、慰め解放するのか。誰が主の愛と救いを伝えるのか。」と思いめぐらしていた時、主の声を聞きました。「そうだ!自分がそこに行かないで誰が行くのか。彼らの真の友となりえるのは自分なのだ。」1873年50人のハンセン病患者とともに、モロカイ島に渡ったのです。ダミアンは、絶望している彼らのために、住まいを造り、手当てをし、食事や洗濯まで引き受け、キリストの愛で誠心誠意、友として仕えたのです。死んでいく人たちのために棺を造り、16年間に1600人もの葬儀を行ったそうです。彼らはダミアンの愛の働きに心を開き、多くの救われた者が起こされました。晩年ダミアン自身もライ菌に侵され病の人となりました。その時、「ああ、私も彼らと同じ病になれたと言い、これで彼らの本当の兄弟姉妹だ。」と悲しむどころか、神に感謝したのです。

現在モロカイ島には、病院や医療施設が建てられ、ダミアンの蒔いた種が、美しく花咲き、実を結んでいます。(医学の進歩した今日、ハンセン病は、不治の病ではなく、伝染病の中では、最も感染力の弱い、いやされる病気の一つとなりました。)田中光春著・信仰人物伝参照

「人が、その友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」ヨハネ15:13


「神に受け入れられる信仰98」2月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、神への祈りと信仰により、生涯に1万人以上の孤児を養い育て、多くの救われるものを起こしたジョージ・ミュラーの信仰です。

ミュラーは、20才で、キリストの救いを受けるまでは、罪の中を歩み、放蕩三昧の生活をしていました。しかし、キリストを信じて罪を悔い改め救いを体験した後は、祈りと信仰の人物へと造り変えられました。1832年イギリスのブリストルで牧師として伝道の働きを始めました。当時のイギリスには、親を失った多くの孤児があふれていました。これらの孤児数人を助けるための働きがやがて数千名の孤児を養い育てることになったのです。そしてこれらは、すべて神のみに必要を求め、満たす働きでした。

「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかといって思いわずらうなこれらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて与えられるであろう。」マタイ6:31-33 

ミュラーは、生涯次のような心情を持ち続けました。

1・どんなに乏しくても人を頼りとせず神のみに頼る。

2・決して借金をしない。

3・まず神のために用いる。

このようにして祈りと信仰の生涯を送り、九四才で天に召されるまで、5万回にも及ぶ、神の応答を受けたと記録しています。神は、必要のすべてを与え満たされる備え主です。あなたの必要を神に求めてください。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰97」1月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者神がおられることと神を求める報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、幕末に陰で宣教師を支えた仙太郎の信仰です。彼は現在のしまなみ海道橋に面する、広島県生口島の漁師でした。1850年江戸(今の東京)から、兵庫に向かう途中、遠州灘沖で嵐にあい52日間の漂流中、米船オークランド号に救助され、アメリカにわたり、日本人で最初のバプテスマ(洗礼)を受け、プロテスタントのクリスチャンになりました。

その後、宣教師ゴーブル夫妻や、ヘボン、バラなどの宣教師に仕え協力し、日本宣教の初穂として用いられました。有名な摩太福音書(ゴーブル訳)の和訳にも用いられました。

彼の存在を知る日本人は、ほとんどいません。当時の日本は、キリスト教禁令の時代であり、ぺルリ艦隊の来日の際に、帰国しようとしたときには、徳川幕府の打ち払い令により、日本を目の前にして、帰国を赦されず、再びアメリカに戻され、6年後に、宣教師とともに、開国迫る日本の土を踏んだのです。大嵐に出会い、遭難、漂流という試練の中で、神に出会い信仰を持った先人クリスチャンがいたのです。43才の生涯をささげた仙太郎は、天の御国の民となり、今も永遠の命の中で、日本の救いを祈っていることでしょう。イエスの言葉で締めくくります。「わたしがしていることは、今はわからないが、後でわかるようになります。」ヨハネ13:7


「神に受け入れられる信仰96」1月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求めるには報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、良心と平和の政治家、第39代アメリカ大統領ジミー・カーターの信仰です。は、「私の人生の中で最も大事なもの、それは、イエス・キリストです。」と告白しています。

アメリカの大統領になった時、聖書に手を置いて神と人々の前に宣誓をするのがアメリカ建国以来の習わしですが、その時開かれた聖書の言葉は、ミカ書6:8でした。「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」

彼の歩みの中心には、いつも神がともにいました。いくつか、紹介しましょう。

「私たちは人間に従うよりは、神に従うべきである。」使徒5:29 ②「もしラッパがはっきりした音を出さないならば、だれが戦闘の準備をするだろう。」Ⅰコリント14:8➡(上に立つリーダーははっきりとしたビジョンと姿勢、態度が大切であるの意味)③指導者は、道徳上、信仰上、政治上の信念を常に再確認し、強化しなければならない。指導者が、国民の信用を取り戻す最善の方法は、信頼される価値あるものになるということである。④罪にまみれた世界に正義を確立することが、政治に課せられた悲しい義務である。=神学者ニーバーの言葉をたびたび引用、ほかにも多数心を打つ言葉があります。

最後にジミー・カーターは人種差別に反対し、世界の平和を強く求めました。彼は、大統領時代にも、いつも聖日礼拝をできる限り守り、家族で神と人々に仕えました。

このような真のリーダーが世界に日本に与えられることを強く祈り願う者です。


「神に受け入れられる信仰95」1月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ホーリネス運動で、神の栄光を現し、信仰の清めを求めた笹尾鉄三郎の信仰です。笹尾鉄三郎は、明治元年、三重県の津市に生まれました。幼い時期に笹尾家に養子に迎えられ、とても賢い子供として成長しました。18才で慶応義塾大学に入学し、塾長福沢諭吉に認められ期待されるほど優秀な学生でした。

二十歳の時、慶應義塾をやめてアメリカのパシフィック商科大学に移り、将来日本を背負う実業家を目指しました。しかし、ある敬虔なクリスチャン夫人を通してキリストに導かれキリスト者になりました。23才の時、伝道者になる決意のもと、裕福な家庭の資産や、有望な学問、出世の道よりもキリストに従う道を選びました。彼は、日本に帰国し、松江のバックストンのもとで神と人々に仕えました。その後ホーリネスの中田重治や無教会の内村鑑三などとも親交を深め、ホーリネス運動リバイバルの中心人物として、中田重治とともに、大きく神に用いられました。

今日の日本の教会に大きな功績を残しました。笹尾鉄三郎は信仰の人でしたが、彼の死後、弟子たちは次のように述べています。

祈祷の人であった。どのような時にも、どのような状態でも、常に神への祈りが彼の第一の優先順位であり、中心でした。また、み言葉を重んじる人でした。学者としてではなく、神の命としてみ言葉に聞き、み言葉に生きる信仰の人でした。さらに、キリストから与えられた聖なる品性の持ち主でした。愛にあふれ、謙遜で誠実、柔和で温かな平安の持ち主でした。言葉とともに、それ以上に生きざまそのものが、彼の伝道であり、教育でした。高い知識の持ち主でありながら、幼い子供を愛し、貧しい人や病の人、この世的に恵まれず、道を外した人にも変わることのない愛を注いだ46年の生涯でした。「だれでも、自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益な者、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」Ⅱテモテ2:21

 このような神に喜ばれる器になりたいものです。


「神に受け入れられる信仰94」1月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、オーストラリアの東方にある現在のバヌアツ共和国に宣教し一粒の麦となった、ジョン・ペートンの命を懸けた信仰生涯です

当時、バヌアツにある島々には人食い人種が存在していました。ジョン・ペートンはニュー・ヘブリデス諸島(現在バヌアツ共和国)に1858年34才の時、妻メリーとコープランド宣教師とともにスコットランドより、宣教の働きで現地に移り住みました。しかし、次の年に最愛の妻と一才の息子ピーターを、風土病で天に送りました。

このような試練を受けながらも64才までこの地の人々の救いのために、命を懸けて福音を伝えたのです。当時この島の人たちは、人肉を食べる風習があり、何人もの宣教師とその家族が犠牲となったと、ジョン・ペートンの信仰偉人伝(教会新報社)に記されていました。キリスト教の福音宣教の歴史を振り返るとき、多くの先人信仰者の血と涙と汗の犠牲の代価が払われていたことを思わずにはおれません。この愛の犠牲はキリストの十字架により罪赦された者が、キリストと同じように神と人々を愛してささげたのです。今日バヌアツ共和国では、多くのクリスチャンが存在しています。

「キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちは、兄弟のために命を捨てるべきです。」Ⅰヨハネ3:16 

歴史に埋もれていたジョン・ペートンの愛の宣教をを知ることができ、伝えることができて感謝です。


「神に受け入れられる信仰93」1月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、世界の大衆伝道者ビリー・グラハムの信仰です。

日本でも二度、後楽園球場(現在の東京ドーム)と、日生球場でクルーセード伝道を行いました。

ビリーグラハムの福音は、シンプルに誰にでもわかるようなメッセージが特徴です。幼い子供から、熟年層、知識の深い人もそうでないような人たちまで、十字架と復活をはっきりと語る、愛と信仰に満ち溢れた福音でした。そして、いつも「聖書に書いてある。」と純粋にキリストを伝えたのです。初めは、「青年をキリストに」と若い学生や青年を中心にしていましたが、年を重ねるごとに、あらゆる年代、あらゆる職業、あらゆる民族、国々へと発展し、多くの人々をキリストの救いへと導き、今世紀最大の大衆伝道者となりました。その中には、この世的に道を外れたような傷や悲しみを持った人も多く存在しました。しかし、キリストを信じた後は、まったく変えられて新しくされました。

ビリー:グラハムは人種差別や社会の不条理に反対し、マルティン・ルーサー・キング牧師とも交わり、白人と黒人の壁をなくし、互いが愛により結ばれるように働きました。

彼により何十万、何百万と言う人々がキリストの救いを受けたことでしょう。あるいはそれ以上かもしれません。今は、息子のフランクリンが後継者として、グラハム伝道を引き継いでいます。最後にキリストの大宣教命令のみ言葉を記します。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ。」マルコ16:15

 


「神に受け入れられる信仰92」1月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、東京女子大を、設立し日本の教育と福祉のために生涯をささげた宣教師、カール・ライシャワーの信仰です。

カール・ライシャワーは明治36年妻ヘレンとともに、宣教師として来日しました。カール・ライシャワー宣教師の働きは、福音宣教とともに、教育、福祉など多岐にわたりました。

明治学院大学では神学部教授や高等部部長、東京女子大学創設者として尽力し日本の女性の教育に功績を残しました。、ICU(国際基督教大学)の働きにも寄与しました。さらに、娘フェリシアが、耳が聞こえないために自ら先頭に立ち、日本ろーあ学校を設立し、日本のろーあ学校教育の初穂となりました。長男ロバートはアメリカの有名大学プリンストン大学の教授として、日本史をはじめ東洋史の研究者として活躍しました。しかし昭和12年上海滞在中、日本軍の飛行機による爆撃で30歳の若さで亡くなり、その遺体は東京の多摩墓地に埋葬されています。次男のエドウイン・ライシャワーは日本国大使として日米の懸け橋となりとても有名です。このように、日本の救霊宣教、教育、福祉のために生涯をささげた、ライシャワーファミリーの存在をこのブログを通して知っていただければ幸いです。

 


「神に受け入れられる信仰91」1月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、台湾の信仰の勇者ウイラン・タツコの信仰です。

1895年、日清戦争に勝利した日本は当時の清国より、台湾を日本の領土として譲り受けました。その後、日露戦争、第一次世界大戦に戦勝国となった日本は、台湾を日本の統治として、すべての政治や、教育、そして宗教までも日本の神道を押し付け支配したのです。

ウイラン・タツコは山地族(高砂族と呼ばれた)の一つであるタロコ族の人間でした。彼はタロコ族の勇敢な青年でしたが、キリストを受け入れ忠実なクリスチャンとして信仰の生涯を全うしました。

太平洋戦争で日本が米英をはじめ連合国側と戦った時、敵国の宗教という理由で、クリスチャンは大変な迫害を受けました。ウイラン:タツコは何度も木刀で殴られたり、木に逆さづりに縛られたまま、長い時間放置されたり、体を火で焼かれたり、冷たい冬に水をかけられたり、とてもひどい拷問を何日間も受けたり、家族を含めて迫害の連続でした。しかし、このような中でも、迫害する日本軍や、特高の人たちを憎まず赦し、敵のためにお祈りをささげたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34とイエス・キリストが祈られたと同じように迫害する者のために祈りました。

キリスト教の歴史は迫害の歴史と言っても過言ではありません。現在台湾の産地の高砂族と言われた地域には、多くの教会があり、救われた多くのクリスチャンが存在します。

ウイラン・タッコはその初穂となった一人の勇敢な信仰者です。彼は、今御国において神の統治の中で賛美と礼拝をささげているに違いありません。ハレルヤ!主を賛美します。


神に受け入れられる信仰90」1月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、横浜訓盲院の創設者ギデオン・フランク・ドレーパーの信仰です現在、彼の名前を知っている日本の人は、ほとんどおりません。しかし、天の御国においては、キリストのもとで神からの大きな賞与を受けているにちがいありません。

彼は、明治13年結婚して間もなく、妻マイラとともに日本宣教のため横浜の地を踏んだのです。

多くの人々に福音を伝える中で、当時盲人の人は、家族からも周囲の人からも見捨てられ、教育も受けられず貧困と病と、人々の偏見差別の中で死を待つばかりの生活をしていました。

このような盲人の魂の救いと、社会からの救いのために生涯をささげたのが、ドレーパーとその家族でした。彼は、横浜訓盲院という働きを始めて、日本の盲学校のモデルを作り、盲人の方々の救いの先駆者となったのです。盲学校と育児施設、生活訓練センターという3本柱を備えた働きで、霊と心と生活面の救いと自立をもたらす愛の働きでした。

ドレーパーは博士号を持ち、5か国語も話す博識で深い教養の持ち主でしたが、日本の救霊、特に盲人宣教のためにすべてをささげ、この世的には貧しく質素な生活を送りました。彼のモットーのみ言葉は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちの一人にしたのはわたしにしたのです。」マタイ25:40

いつも笑みをたたえ、家族一丸となって、日本の人々に仕えたのです。彼の妻も母親も日本で亡くなり日本の土となりました。自らは二人の娘とともに財産のすべてをささげ、91歳でこの世の生涯を走りぬき天に凱旋しました。このような偉大な信仰者を紹介できる幸いを感謝します。


「神に受け入れられる信仰89」1月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、アルプスの少女」の作家ヨハンナ・スピーリの信仰です。

ヨハンナ・スピーリは、医者の父と牧師の娘である信仰深い母の間に7人兄弟の真ん中の子どもとして、1827年、スイスのチューリッヒ湖畔の小さな村に生まれました。両親は敬虔なクリスチャンで幼い時より、貧しいけれども、温かい家庭の中で愛情いっぱいに育ちました。父親からは、体の健康、母親からは、心の愛情を受け継ぎ育ちました。

アルプスの少女ハイジは、自らの生きざまを投影させるような少女でした。神の創造されたアルプスの大自然の中で、貧しく素朴であっても、本来人間の持つ最も大切で、必要な生き方を作品を通して描いています。

ヨハンナ・スピーリーの多くの作品の中で「人質」と言う物語は、苦しい立場にある友を助けるためにひとりひとりの人が、十字架を背負うほどの苦しみを背負い戦いながら、汗を流し、からだを動かし、患難を克服し、友人を助ける友情を描いた作品です。

この「人質」は、太宰治が、「走れメロス」と言う題で小説として書き直し、太宰治の有名な代表作となりました。(教会新報社・ヨハンナ・スピーリ・玉木功著より引用)

最後に彼女が愛した聖書の一節を紹介して締めくくります。

「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。私の望みは、あなたにあります。」詩篇39:7

彼女の心の根底にあったのは、神に対する信仰と、人々への愛でした。さらに神が創造されたスイスの自然を愛し、自由と平和を愛した生涯でした。彼女は神から与えられた文学という才能を用いて、福音を伝えたのです。


「神に受け入れられる信仰88」1月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、世界の鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーの信仰です。彼は、1835年スコットランドで生まれました。13才の時、父親が職を失い、新天地アメリカに家族で移住しました。貧しい中で、苦学と勤勉を重ねて、誠心誠意働き続けた結果、世界の鉄鋼王と呼ばれるまでの実業家になりました。

彼の信仰は、正直、勤勉、絶えざる向上心、神の愛から出る仲間と人々への奉仕の心でした。さらに、上からの知恵とアイディアにより、技術革新の連続で、事業を成功させたのです。

その結果多くの富と名声を勝ち得ましたが、「富の福音と題して、莫大な財を社会にささげ、キリスト者として神の栄光を現したのです。

有名なカーネギーホールをはじめ、教育では、大学をはじめとして多くの学校と奨学基金の創設、病院や福祉施設、教会や文化、芸術活動の音楽ホールやスポーツ施設など多岐にわたり財とそのシステムを後世に残しました。このような実業家、経営者が今も存在したら、なんと幸いでしょう。

カーネギーは、地上に富を蓄えたのではなく、天に宝を積んだのです。最後にイエス・キリストの山上の垂訓と呼ばれたみ言葉を紹介いたします。

「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」マタイ6:19-2

 


「神に受け入れられる信仰87」1月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、ダビデと真の友情を持ったヨナタンの信仰です。ヨナタンは、サウル王の息子です。本来なら、父親であるサウル王の後にイスラエルの王として即位する立場が、ヨナタンにありました。

しかし、サウル王が、神の御心に反して退けられた後、ダビデに主の御心があり、油注ぎがあることを認めたヨナタンは、ダビデこそが王にふさわしいと彼に仕えるのです。父サウル王が、ダビデを妬みのゆえに殺そうとしたときにも、自らの命の危険をおかしながらも、ダビデを逃がしました。サウル王とヨナタンが、ペリシテとの戦いで、死んだとき、ダビデはヨナタンの死を心から悲しみ、次のように嘆きました。

「ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはお前の高き所で殺された。あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は女の愛にもまさって素晴らしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器は失せた。」Ⅱサムエル1:25-27

 ヨナタンは、ダビデを心から愛し、神が王としてダビデを選んだことを認め、私利私欲を捨てて、ただ、神と友への信頼と愛を全うしたのです。

「人がその友のために、いのちを捨てるという、これよりも、大きな愛はだれももっていません。」ヨハネ15:13 まさに、キリストの愛にも通じるヨナタンの友への真の愛です。内村鑑三は、聖書の人物の中で、最も心惹かれる人物は、ヨナタンであると告白しています。


「神に受け入れられる信仰86」1月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、救ライ(ハンセン病の救い)に一生をささげた医師、林文雄の信仰です。ライ(ハンセン病)は古くは数千年前のエジプトのミイラからもライ菌の痕跡が認められ、何千万、何億、何十億と言う人々が、心身ともに苦しめられてきた病です。天刑病だと呼ばれ、その人が悪いことをした刑罰であるとか、遺伝病などと、間違った考えから、本人のみならず、家族や親族に至るまで、ひどい差別や、偏見に苦しめられてきました。この救ライの働きに、生涯をささげた医師が林文雄です。彼は、北海道大学医学部を卒業後、ハンセン病患者の治療、療養所の建設や、ライ病への偏見や差別をなくすための働きに47年の全生涯をささげたのです。

彼は、敬虔なクリスチャンの両親に育てられ、キリストから受けた愛と信仰により、神と人々に仕えたのです。現在日本には、ほとんどハンセン病の方を周りに見ませんが、明治、大正、昭和と多くの人がこの病でつらく、悲しい人生を送りました。今ある、ハンセン病療養所の、ほとんどが、林文雄をはじめとしたキリスト者の働きにより存在したものです。

彼の遺言には、日本だけでなく、世界のハンセン病の救いのために、多くの情熱を持った若い医師や働き人がライ撲滅のために出現することを祈ります。と書かれ、「天より恵みあれ。汝ら互いに相愛せよ。」結ばれていました。

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし、死んだなら豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って、永遠の命に至るであろう。」ヨハネ12:24-25


「神に受け入れられる信仰85」1月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がイおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、クリスマスカンタータ「メサイアlの作曲で、有名な音楽家ヘンデルです。ヘンデルは、神から特別な音楽の才能を与えられ、多くの作曲をいたしました。その音楽の原点は、神を賛美しほめたたえるという音楽でした。彼は、この世的には、多くの苦難を体験し、経済面や、生活面では、貧しさや、悲しみ、困難を味わいました。しかし、どんなときにも神様を称えるという思いが音楽の中心でした。それゆえに、300年以上の歳月を重ねても世界中の人々に感動と、励ましや、慰めを与えているのです。

彼の音楽は、神から出て与えられたものだからです。

「主をほめたたえよ。その聖所で神をほめたたえよ。その力のあらわれる大空で主をほめたたえよ。その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ。そのすぐれて大いなることのゆえに主をほめたたえよ。」詩篇150:1-2


「神に受け入れられる信仰84」1月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、神の愛と清さを伝えた人バークレー・バックストンです。

日本のプロテスタント教会は、明治時代に宣教師の大きな働きが土台となり、現在に至っています。特に初期の教会には、4つの流れがありました。第一は横浜バンドと言われ、バラ、ヘボン、ブラウンなどのミッションで、植村正久や本多庸一(青山学院大学の創始者)などで、日本の多くの教会がこの流れです。第二の熊本バンドは、軍人クリスチャンのジェーンズ大尉により起こされました。新島襄の同志社大学などに多くの影響を与えました。第三の札幌バンド、「少年よ。大志を抱け。キリストにあって。」で有名なクラーク博士を中心とした働きで、内村鑑三、新渡戸稲造、佐藤昌介(東北大学初代総長)などです。第四は松江バンドと呼ばれ、本日の信仰者バックストンが、中心で福音派と呼ばれている、多くの教会がこの流れに属しています。

バックストンの働きは、聖書に忠実な働きで、愛が土台でした。しかも高潔で謙遜なキリストの品性が満ち溢れた人物でした。彼の働きは、キリストがなされたように、信仰生活の中から、弟子を造り育て、働きをゆだねて、次世代を造り出すことでした。イエスは言われました。「収穫は多いが働き人が少ない。だから、収穫の主に願ってその収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」マタイ9:37 日本に、先人の信仰者が蒔いた種が多くあります。私たちも同じように、福音の種をまき続けるとき、やがて多くの収穫を刈り取るようになります。私たちの教会のビジョンとモットーは、「祈りと伝道」「日本の救い、町の救い、家族ぐるみの救い」です。

日本の救いとリバイバルを切に祈り、願ってやみません。


 

「神に受け入れられる信仰83」1月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、宗教改革者のマルチン・ルターの信仰を取り上げます。マルチン・ルターは聖書学者であり、説教者であり、文学者であり、音楽家でもありました。彼は、聖書翻訳に努め、当時ラテン語でのみ、書かれ読まれていた聖書をドイツ語に訳し、誰でも理解できる平易な文章にして、今日の世界中で翻訳されている聖書の原点になりました。

また多くのすぐれた信仰書物を通して、神に対する信仰を知らしめました。さらに音楽家としても、多くの神への賛美を作曲し作詞しました。しかし、何と言っても、ルターの最大の功績は、宗教改革者としての働きです。

ルターは、三つの面で宗教改革を行いました。

第一は、「義人はその信仰によって生きる。」ハバクク2:4のみ言葉に立ち、信仰の救いを確立したことです。当時は、ローマカトリックに属し、ローマ法王の権威に従わなければ救われない。さらに免罪符による金銭で救いを買うこと、または、難行苦行を積むことにより救われるなど、キリストの十字架と復活の救いとは、かけ離れた事柄を、改革したのです。

第二の改革は、すべての人々が自国の言葉、わかる言葉で、聖書を翻訳して普及させるみ言葉の改革を行ったことです。

第三には、教皇や、司祭など特権階級の教役者だけでなく、すべての信者が祭司である万民祭司制度の改革を確立したことです。

ルターを通して、だれにでも、信じるすべての人々に救いの門が開かれたのです

”なぜなら、福音のうちには神の義が掲示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。”ローマ1:17


「神に受け入れられる信仰82」1月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、宣教師の先駆者、アフリカ伝道の開拓者リビングストンを取り上げます。リビングストンは、敬虔なクリスチャンの両親に育てられ、27才の時にアフリカ宣教師として、神に生涯をささげました。彼は、グラスゴー大学で医学と神学を学び、霊魂と肉体の医者としてアフリカの人々の救いのために働いたのです。

当時のアフリカでは黒人を、売り買いする奴隷売買が公然と行われていました。リビングストンの第一の働きは福音を伝えて、キリストの救いを伝える宣教師としての働きです。

第二の働きは、探検家として、アフリカ大陸の地理を全世界に知らしめ、交通路を開拓し、経済や産業の発展に寄与し社会的な救いを、貧しいアフリカにもたらした働きです

第三の働きは、人身売買と言う、人間を奴隷とする罪をなくすための、人道的な働きでした。

これらの働きの力の源は、神からの愛と信仰の力で、アフリカの人々を愛する隣人愛でした。

リビングストンの蒔いた種が、多くの後継者を産み、今では、アフリカの多くの国々で、クリスチャンが生まれています。リビングストンは、幼い子供をアフリカ宣教で天に送り、最愛の妻メアリーもマラリヤの病で失いました。そして、最後は、自らも60歳でアフリカの土として、天に召されたのです。「よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」ヨハネ12:24-25

リビングストンに贈るべき、ふさわしいみ言葉です。


「神に受け入れられる信仰81」2021年1月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、約束の地カナン進約攻におけるヨシュアが持った信仰です。430年のエジプト奴隷時代の、偉大な解放者であり指導者のモーセが死んで、ヨシュアの時代になりました。主は、ヨシュアに告げて仰せられました。それがヨシュア記です。

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ヨシュア記1:2-3

この約束の言葉は、今、神を信じる私たちへの約束の言葉です。

神はイスラエルに約束の地、相続の地を与えられたと同様に、神を信じる者に、家族に、教会に、国民に相続地を用意しておられます。2021年に取るべき約束の領域は、広く、大きく信仰によって、足の裏で踏んだところが与えられるのです。

では、ヨシュアが持った信仰とはどのような信仰でしょうか。

神は、繰り返し語られました。

「強くあれ、雄々しくあれ、私が彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所どこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにおられるからである。」ヨシュア記1:6-9

 

このみ言葉にあるように、①神がともにおられることを堅く信じる。 ②律法の書、すなわち神の約束の言葉を堅く信じる。③強く雄々しく行動する信仰。これがヨシュアが持った信仰です。

新しい年の初めに、ヨシュアの信仰にならい、強く雄々しくありましょう。あなたへの、約束の地は広く、大きいのです。


「神に受け入れられる信仰80」12月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、アメリカ第16代大統領アブラハム・リンカーンです。リンカーンは、当時アメリカにおいて奴隷制度の存在するなか、多くの黒人が南部諸州においては、奴隷として、人身売買が行われていました。リンカーンは、奴隷制度廃止を訴え、大統領に当選すると、南北戦争の中で、神と人を愛するキリスト精神で北部のリーダーとして、奴隷制度廃止を訴え、南部と戦いました。4年に及ぶ戦争の結果、北軍の勝利となり、奴隷制度は廃止されました。そして、有名な「この国を神の加護のもとに新しい自由の国として出発せしめ、人民の人民による人民のための政治(政府)を地球上から滅ぼさないように努める。」と言う言葉を残しました。しかし、リンカーンは、南北戦争終結の数日後56才で暗殺されてしまいました。

多くの人々がリンカーンの死を悼み、今日まで彼の生きざまから伝わる、「人民の人民による人民のための政治。」は、今も生きています。その反面、黒人差別や、人間の罪性による差別やいじめがなくならないのは、悲しいことです。リンカーンの持った信仰は、神から生まれた「自由、平等、博愛」の信仰です。


「神に受け入れられる信仰79」12月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、シメオンです。シメオンの名前の意味は、「聞く」です。彼は、常に神の御声を聞いていた人物です。この人も女預言者のアンナのように、メシア誕生の時にイエスに出会ったのです。

”・・・エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリスト(救い主メシア)を見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいってきた。すると、シメオンは幼子を胸に抱き、神をほめたたえて言った。

「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」”ルカ2:25-32

神に受け入れられる信仰とは、神と交わり、神の御声を聞く信仰です。神は、神に近づき求める者には、必ず現われ御声をかけてくださいます。メシアの誕生が預言されていると同じく、いやそれ以上にキリストが再び来られる御再臨が預言されています。シメオンのように、キリストの再びおいでになるときにお出会いしたいと願う者の一人です。

「私を呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう。」エレミヤ33:3


「神に受け入れられる信仰78」12月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、女預言者アンナです。アンナはハンナと同じで恵みと言う意味の名前です。彼女は結婚7年で若くして夫を亡くし、やもめとなり84歳になっていました。しかし、神に仕え、宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りの生活をし、幼子イエスさまが、宮で神にささげられるという献児式の時に立ち会いました。彼女は、だれよりもメシアの到来を待ち望んでいたのでしょう。そして、同じようにメシアを待ち望んでいる多くの人々に、幼子イエスのことを語り継げたのです。ルカ2:36-37 神は、神を求め、探す(捜す)人に出会ってくださいます。クリスマスは神が人となられてこの世においでくださったのです。昨日で今年のクリスマスは終わりましたが、神を求める者には、必ず出会うことができるようにイエスは現れてくださいます。私の大好きなみ言葉です。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」マタイ7:7 あなたも、アンナのようにイエスにお出会いして、恵みの満ち溢れる人生に向かわれますことお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰77」12月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

メリークリスマス

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、イエスの母マリヤと父ヨセフの信仰です。

今日は、イエス・キリストの誕生日クリスマスです。イエスの誕生には、神より選ばれたマリヤとヨセフが必要でした。イエスの誕生は、人間の男女の関係ではなく、聖霊による誕生でした。マリヤとヨセフは婚約中でしたが、結婚前に、マリヤは身ごもり、キリストを産んだのです。そこには二人の神と互いへの愛と信頼の強い絆(きずな)がありました。彼らの持った信仰とは、愛と信頼の信仰です。「愛は信頼を生み出し、信頼のあるところに愛が生まれるのです。」

御使いは、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとともにおられます。」

「こわがることはない。マリヤ。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。そこで、マリヤは御使いに言った。どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。ルカ1:28-35

婚約中に、結婚する前に子供が生まれるということは、当時の律法では、姦淫罪にあたり、石打の刑罰で死刑とされたのです。クリスマスは、神が全人類の救いのために神の独り子送られたのです。イエスは、すべての人を救うため、罪がないのに罪びとの身代わりとして、十字架につけられたのです。

本当のクリスマスを体験してください。「イエスを主として、救い主として、心から信じるなら,あなたは救われるのです。」これが本当のクリスマスです。


「神に受け入れられる信仰76」12月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、中国伝道の開拓者ハドソン・テーラーを取り上げます。

ハドソン・テーラーは、敬虔なクリスチャンである両親に育てられ、17才の時に、中国伝道の召しを神から受けました。彼は、祈りの中で中国宣教のビジョンを育て、医学や薬学を学び、21才の時に中国に渡り、73歳で、天に召されるまで、中国人の救いのために全生涯を、神と中国にささげました。彼は、中国人を、キリストの愛で愛し、中国人の衣服をまとい、中国の食事を食べ、当時の人々がしていた、弁髪という髪形をして、福音を伝えました。使徒パウロが、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。・・・弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」Ⅰコリント9:19-23

ハドソン・テーラーは、中国宣教において妻と二人の子供を失いました。そして、彼自身も、多くの迫害や苦難、病苦や飢えをも忍びながら、一粒の麦としてその生涯を、神と中国の救いにささげたのです。彼の信仰は、愛の行いだったのです。ハドソン・テーラーが、蒔いた福音の種により

現在、中国には、8千万人から一億人のクリスチャンがいると言われています。


「神に受け入れられる信仰75」12月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、キリストの愛の実践者、賀川豊彦を取り上げます。

賀川豊彦は、幼いころに妾のこといじめられ、しかもその両親を幼くしてなくし、義母に引き取られいじめられ、とても不幸と思われる幼少期を送りました。

しかし、中学生の時英語を学ぶため、宣教師に出会い、キリストの救いに導かれました。そして、明治学院神学部で学び、神戸の貧民窟と呼ばれていた新川で福音伝道をはじめ、その生涯を貧しい人々、病んでいる人々、この世から疎外されている人々に愛の実践をもって仕えました。社会の闇の部分にキリストの愛と光を当てて、福祉、教育、政治や社会運動、労働運動にまで、キリスト者として、すべてをささげて仕えたのです。

彼は、愛とは、人々のごみ箱になることだと語り、人の苦しみ、悩み、悲しみなどをキリストの愛で引き受けたのです。

聖書に良きサマリヤ人の物語がありますが、自分にとり、敵であったり、害を加えたり、何の益ももたらさず、むしろ損と思われる人や事柄にも、キリストの愛で仕えました。

賀川豊彦の持った信仰は、まさに愛の信仰です。「人が、友のために自分の命を捨てること、これにまさる愛はない。」聖書 

彼の信仰は、キリストの十字架より生まれ、十字架の愛に生きた信仰なのです。


「神に受け入れられる信仰74」12月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、同志社大学の創設者、新島襄の信仰です。

数年前に、新島襄の妻、八重を主人公にした「八重の桜」が、綾瀬はるかさん主演で放映されました。新島襄は、若い時、日本脱出をはかり、アメリカで約10年間、過ごしました。その間キリストの救いに預かり、キリストを学び、当時の世界最先端の教育を受けました。

新島は、日本政府の訪米、訪欧使節団の通訳に抜擢され、日本政府より、外務大臣の職も熱望されましたが、それを断り、神よりの使命である、日本の将来を担う若者教育に生涯をかけ、同志社大学を設立したのです。新島の信仰は情熱と愛の教育信仰でした。単なる知識教育ではなく、全人格的な生涯教育でした。

最後に、新島の伝記を書いた小松栄次郎氏の勧めの言葉を引用いたします。

「私は、今、涙で曇った目でこれを書いている。私は、こんな素晴らしい、信仰と勇気と愛に生きた人を知らなかった。もっと若い時に彼を知っていればよかったと思う。新島襄、彼は、真理を求める人であった。彼は、父、母、姉や弟を愛する人であった。彼は、ただひとりの神なるお方を愛し、そのみことばに忠実に従う人だった。彼は、自分のために勉強したり、冒険したのではなかった。神のため、日本の人々の救いのためにすべてを行なったのだ。君も、彼のことをよく知ってほしい。彼の神への忠実を、人を愛することのすばらしさを学んでほしい。…私も彼のように、信仰による愛と勇気をもって歩きたいと思う。君も、若い時に、彼が知った神を知ってほしいと思う。」

「あなたは、この邪悪な世の中で、いのちのみ言葉をかたくもって星のように輝いている。」

ピリピ2:15


「神に受け入れられる信仰73」12月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」、現代における預言者と呼ばれた内村鑑三を取り上げます

「少年よ。大志を抱け。」有名な北海道大学の前身である札幌農学校教師、クラーク博士の言葉です。しかし、本当は、この後に、「ボーイズ ビー アンビシャス フオー・クライスト」とあり、「キリストにあって、少年よ。大志を抱け。」の意味なのです。

内村鑑三は、17才の時、新渡戸稲造などとともに、直接では、ありませんでしたがクラーク博士の教えと伝道の感化により洗礼を受けました。その後、アメリカのアーモスト大学に学び、帰国後第一高等中学校(東京大学教養学部の前身)の教師になりましたが、不敬事件で天皇の真影(天皇と皇后の写真)を拝むのを拒否したため、職を失い国賊や非国民呼ばわりをされました。

内村のこの世における生涯は、決して光の当たるようではなく、苦難と試練の連続でした。しかし、聖書の真理を尊び、キリストに対する信仰は、揺るぐことはありませんでした

内村は常に、「私は二つの J(JESUSとJAPAN)を愛する。」と言い神と日本を愛する真の愛国者でした。内村鑑三の弟子たちには南原繁や矢内原忠雄(二人とも東大学長)藤林益三(最高裁長官)塚本虎二、藤井武、(聖書学者)松前重義(前東海大学総長)など多くの著名人がいます。

最後になりましたが内村鑑三の信仰は、武士道の精神の上にキリストが育ったような、日本人を代表するような信仰です。また、反面、幼子のような純粋な聖書信仰です。


「神に受け入れられる信仰72」12月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、アッシジの聖フランシスコです。彼の信仰と愛の生きざまは、有名なフランシスコの祈りに凝縮して現わされています。平和の祈りです。この祈りを紹介して、今回のメッセージといたします。

【平和の祈り】

主よ。 わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。 憎しみのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください。慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。わたしたちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。 (アッシジの聖フランシスコ)


「神に受け入れられる信仰71」12月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」、日本初の公害運動、足尾銅山公害事件と戦った愛と情熱の信仰者、田中正造を取り上げます。

正造は1842年栃木県の安蘇郡小中村に生まれました。彼は県会議員、衆議会議員となり、足尾鉱毒事件のために、命がけで働き、ついには明治天皇に直訴までいたしました。彼の生涯を貫いたのは、キリストを信じる信仰からくる、人々への隣人愛でした。そして、どんな権力や不正も恐れず神の義を貫いた不屈の信仰です。さらに、無私無欲の生涯で、天に召されたときには、枕元に、新約聖書一冊と、日記三冊、憲法とマタイ伝、意見を書いた原稿、少しの鼻紙といくつかの石ころが、全財産であったと記されています。

まさに、日本におけるバプテスマのヨハネを見るような生涯でした。

現在、東日本大地震において、福島原発が破壊され、核汚染がおこり続いていますが、その原型を見るようなことが、明治時代に起こっていました。

田中正造は、この世では、貧しく、多くの人から誤解や迫害を受けましたが、このことから、大切な教訓を得たいものと深く教えられました。この地上のことより、天の御国を第一に求めたいものです。


「神に受け入れられる信仰70」12月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は、18世紀のイギリスのリバイバリスト(信仰復興者)ジョン・ウエスレーです。ウエスレーは、メソジスト(几帳面の意味)運動をおこし、キリストの福音を貧しい人や病気の人、多くの一般の人々に福音を届け、当時、罪と不信仰であったイギリスを健全な国に導いたリバイバリストです。

ウエスレーの伝えた福音は、罪からの救いの十字架と復活をストレートに伝えた福音でした。

彼は、無私無欲の人で、苦しんでいる人や貧しい人にキリストの愛を伝え、勤勉に働くことの大切さと、学ぶことの必要性を聖書を土台として、生涯にわたり伝えました。メソジスト運動からホーリネス運動が起こり、更にペンテコステ運動につながり、現在もキリストの福音の中心として、神の働きを拡大しています。

「よくよく、あなた方に言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままである。しかし、もし、死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」ヨハネ12:24 

キリストの歩みを模範として、ウエスレーも一粒の麦となりました。ジョン・ウエスレーのような人物と働きが、日本中に世界中に起こされ、福音の種がまかれ、実を結ぶことを切に祈る者です。


「神に受け入れられる信仰69」12月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰者」は。教育の父と呼ばれたヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチです。彼は、スイスで生まれましたが、イタリア系の人物です。祖父は牧師、父は医師の信仰の厚い家庭で育ちました。ペスタロッチは、最初は農業経営、次に事業家として働きましたが、いずれも失敗し、後に教育の大切さに目覚め、教育者として生涯をささげました。信仰の偉人として、多くの人が、神と人に仕え、神の栄光を現しましたが、ペスタロッチもその一人です。

彼が持った信仰はどのようなものでしょうか。

第一に、神から与えられた使命が教育であると、悟ったことです。

人には、それぞれ神の与えた計画があります。彼は、子供たちや若者を育て教えることが、自らの生きる道と悟ったのです。

第二に、その本質は、神から与えられた愛でした。キリストが、ご自分の命をささげて愛してくださった愛で人を教え育てたのです。

第三に、キリストを信じる信仰です。彼の生涯は困難と試練の連続でした。しかし妻のアンナと二人でどんな障害にも負けず、神への信仰で勝利しました。

ペスタロッチの教育の、最大の特徴は、相手の良きものを引き出すところにありました。人をよく観察し、その性格や、周りの状態を知り、長所や賜物を引き出し、育て、励まし、何が必要かを本人に知らせて教育したのです。

このような教師や、親、人たちが、多くおこされることを祈るものです。人生は出会いで決まると言われますこのような人物に出会い、自らも人の良きものを引き出す人間になりたいものです


「神に受け入れられる信仰68」12月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」へブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」は、クリミアの天使と呼ばれ、近代看護教育の母と呼ばれ、看護師の祖と呼ばれたフローレンス・ナイチンゲールの信仰を取り上げます

彼女は1820年イタリアのフローレンス(フィレンツェ)で生まれました。ナイチンゲールは、様々な分野で才能を発揮し、看護師の母としてだけでなく、看護教育の母、病院建築、統計学者としても非凡な才能がありました。しかし、ナイチンゲールの心の最も中心は、神を信じる信仰と人々への愛でした。

クリミア戦争が起きた時、従軍看護師として傷ついた兵士の看病にあたった彼女は、敵、味方の区別なく献身的に看護にあたり、その精神がナイチンゲール精神として、赤十字精神となり、全世界に赤十字の働きが起こされ、現在に至っています。

ナイチンゲールの持った信仰とは愛の信仰です。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません。」 コリント13:4-8

ナイチンゲールは神から受けた愛で、敵味方の区別なく、人々を愛し看護したのです。

「すべてにまさるのは愛なのです。」あなたの上に神の愛が注がれ、あなたも愛の人となりますようお祈りいたします。


12月生まれのあなたへ