神に受け入れられる信仰4


「神に受け入れられる信仰306」10月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「賞を受ける信仰」です。

昨日、日本人に嬉しいニュースが、飛び込んできました。ノーベル物理学賞を真鍋淑郎氏が受賞したのです。この世においては、ノーベル賞は最も権威と価値のある賞です。

しかし、永遠に渡るものではありません。

「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」コリント9:23-24

「賞を受ける信仰」とは、どのようなものでしょうか。

パウロは、私はすべてのことを福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受けるためですと告白しています。

福音とは、すべての人を救うキリストの御生涯です。パウロはなんとかして幾人かでも救うために、その人の立場に立ち、弱い者には弱い者のようになり、ユダヤ人にはユダヤ人のようになったのです。福音の働きを通して、人々にキリストの救いを伝え、神からの賞与を受け取る者にならせていただきましょう。


「神に受け入れられる信仰305」10月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「とりなしの信仰」です。

日本国のリーダーである、第百代総理大臣が決定しました。テモテに対するパウロの勧めのことばです。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」Ⅰテモテ2:1-2 

クリスチャンの大切な使命は、人々のためや、社会のためにとりなしの祈りをささげることです。キリストが私たちのためにいつもとりなして、いてくださるからです。

「・・・よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」ローマ9:34

ではどのようにしてとりなすのでしょうか。御霊によって祈るのです。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り極める方は、御霊の思いが何かを良く知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみ心に従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」ローマ8:26-27

祈りは距離や時間、空間を越えて働きます。あなたの祈りが世界を変え、守り、人々に幸いをもたらすのです。主の御名で祈りましょう。


「神に受け入れられる信仰304」10月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「増加する信仰」です。

生きている信仰は、成長し増加するものです。

”使徒たちは言った。「私たちの信仰を増してください。」しかし主は言われた。「もし、あなたがたに、からし種ほどの、信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。」と言えば、言いつけどおりになるのです。ルカ17:5-6

成長し、増加する信仰とは、形式や儀式の宗教的信仰ではなく、生きた信仰です。

命があれば、小さくても必ず成長します。からし種は、イスラエル地方の植物の中で、最も小さい種を持った種類です。しかし、その地方の野菜の中で最も大きく成長し、高いものは、3メートル以上になります。

信仰も同じです。第一に、神からの命があるなら増加するのです。第二に、「海の中に植われ。」と言えば、すなわち信じて告白する信仰です。告白は所有をもたらすのです。第三に、ルカ17:7ー10に僕として仕えることが述べられています。

信仰は、頭の知識ではなく、実践を通して体験的に学ぶものです。しもべが、耕作をしたり、給仕をして仕えることを通して、仕えることの喜びや苦しみなど、様々の体験から学ぶのです。そして、なすべきことを成したにすぎませんと、主人(ここでは神様をあらわす。)に仕えます。人々と、主に仕えることを通して信仰が増していくのです。

詳しいことは、お近くの教会にお出かけください。あなたの信仰が成熟し、増し加わることをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰303」10月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「和解の信仰」です。

「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」Ⅱコリント5:18

有名な聖フランシスコの平和の祈りです。

「主よ。わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びを、もたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは、理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。わたしたちは、与えるから受け、赦すから赦され、自分を捨てて死に、永遠の命をいただくのですから。」アッシジの聖フランシスコ

この世には、キリストの和解の福音が、必要です。私たちがその和解の福音です。


「神に受け入れられる信仰302」10月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「全力で励む信仰」です。

神に受け入れられる信仰とは、神に全き信頼をする行為です。

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」Ⅰコリント15:58(口語訳聖書)

一人の少年が、重い荷物を持ち上げようとしています。父親が部屋に入ってきて、息子の悪戦苦闘を見て「それでお前は全力を使っているのかい。」と聞きました。「もちろんだよ。」息子は父親に答えました。「おまえは全力を使っていない。私に助けてくださいと頼んでいないではないか。」

真の信仰とは、神に全力で信頼し、人のすべき分を、全力で行うことです。

弟子たちの質問にイエスは答えられました。

”すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えられた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」ヨハネ6:28-29

「全力で励む信仰」とは、神を全力で信じて励む業のことです。あなたの信仰の上に、神の恵みと祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰301」9月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「友の信仰」です。

「世には友らしい見せかけの友がある。しかし兄弟よりもたのもしい友もある。」箴言18:24

「真の友とは、あなたが徹底して信頼でき、互いの善し悪しのすべてをわきまえ、欠点があることを承知で愛してくれる人のことです。」チャーレス・カウマン夫人

イエスは最後の晩餐で弟子たちを集め、最後の遺言メッセージを語られました。

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。」ヨハネ15;15

主人と僕は主従の関係で上下関係です。しかし、友は同等の関係です。

この世に、多くの友が存在するかもしれませんが、キリストにまさる友はおりません。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ヨハネ15:13

イエス・キリストは、十字架でいのちを捨ててすべての人を愛し、信じて従う者を友と呼んでくださるのです。

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」箴言17:17 友を得たいと、思ったらあなたがその人の友となることです。キリストの愛で・・・。


「神に受け入れられる信仰300」9月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「分水嶺の信仰Ⅳ」です。

人類史上最大の分水嶺は、イエス・キリストのゲッセマネでの、祈りです。

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。マタイ26:39

イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」マタイ26:42

”イエスは、又も彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。”マタイ26:44

ゲッセマネの祈りは、十字架につく直前、イエスが全人類の罪の身代わりとして、十字架の死を決断したのです。「できますならば、この杯を過ぎ去らせてください。しかし。わたしの願うようではなく、父のみ心を行ってください。」とメシヤとしての道を選ばれたのです。

”イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」ヨハネ4:34

人には特に神を信じる者には、神のみ心があります。

「人の心には多くの計画がある。しかしただ主のみ旨だけが堅く立つ。」箴言19:21

あなたの人生の分水嶺の上に、主のみ心がなされることをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰299」9月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「分水嶺の信仰Ⅲ」です。

人生の分水嶺とは、人生の重要な選択のことです。このような時の、心備えを考えてみたいと思います。第一に心を白紙の状態にして、先入観や人の目を気にしたり、利得の心ではなく、神のみ心を求めることです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画を良く知っているからだ。ー主の御告げ。ーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるであろう。」エレミヤ29:11-13

神は御心を求めて祈り神に近づく者に、必ず答えてくださり、良き計画の道を示されます。

第二は、自分自身の心の状態です。人の心は振り子のように揺れ動くものです。心が、左右に大きく揺れ動いているときに、決定をしてはならないのです。

「神よ。わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い。かつほめたたえます。」詩篇57:1(口語訳聖書)

ダビデは、心が揺れ動く時、主に祈り、心が定まって平安を得たのです。重要な決断の時、平安が与えられるまで、心が定まるまで、主に求め、平安が来たら信じて決定するのです。

人生の分水嶺のとき、主に信頼し、従う者は、幸いです。主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰298」9月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「分水嶺の信仰Ⅱ」です。

長い人生には、人生を左右する分岐点となる、決断の時がどんな人にも、あるものです。

聖書のみ言葉です。「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は後ろから、『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」イザヤ30:21

人生の分水嶺に立たされた時に、良き道を選択するのに必要なことは、祈りです。祈りは、神との交信であり、会話です。神は生きていて、祈りを聞かれ、答えてくださるお方です

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」エレミヤ33:3

神に祈る時、神はいろいろな手段を用いられますが、最も基本となる導きは二つです。

第一は、神のみ言葉です。聖書の中には、沢山の約束の言葉があります。一説によれば、3万数千に及ぶとさえ言われています。「これが、道だ。これに歩め。」と言うことばを聞くのです。

二つ目は聖霊の導きです「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

全知全能にして、愛なる神が、あなたの祈りを聞き、「これが道だ。これに歩め。」と祝福に満ちた幸いの道に導かれますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰297」9月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「分水嶺の信仰」です。

私は、以前牧師たちと旅行をした時、岐阜県で分水嶺と言われる所に行きました。すなわち、山々に降った雨の流れが、岩にぶっかり、二つに分かれ、一方は太平洋に向かい、片一方は日本海に流れると場所でした。とても不思議に感じました。

福音宣教の歴史の中で、分水嶺に当たる場面があります。

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。」使徒16:6-8

 キリストの福音宣教がエルサレムから始まり、パウロを通して、アジヤから、ヨーロッパ方面に向かったのです。今日の世界宣教は、エルサレムより西回りで全世界に広がりました。

人生においても分水嶺になるときや場面があります。最大の分水嶺は、イエス・キリストです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

人生の中で、どんな状況のときにもキリストを主として、御霊に従うとき、神が幸いな勝利へと導かれるのです。あなたの上に主の祝福をお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰296」9月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「先を見る信仰」です。

預言者の務めは、神の言葉を預かり、多くの場合、先を見通し、伝える働きです。

旧約時代には、多くの預言者が、神に用いられました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどが有名です。今の時代にも、聖霊を通しての預言的務めがあります。

聖霊は、真理の御霊であり、すべてのことを教え導かれるお方です。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネ16:13

自動車のナビが目的地に導くように、聖霊は、人生のナビゲーターとして、私たちの思うところ計るところをはるかにまさって、良きことを成されるのです。

「先を見る信仰」とは、聖霊に満たされ、導かれる信仰です。あなたの上に、聖霊の油注ぎと祝福をお祈りしています

レッツゴー 聖霊様!

 


「神に受け入れられる信仰295」9月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「基本となる信仰」です。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」ヘブル6:1-2

信仰は、成熟を目ざして進まなければなりません。成長、成熟に必要なことは、基本の大切さです。キリスト教の根本真理です。ここでは、六つの基本教理が述べられています。

使徒信条では、約20に及ぶ基本教理が述べられ、どれ一つとして、取り除くことはできません。基礎となる土台部分が、弱く不十分であれば、建物が大きく高くなる時、倒れてしまいます。死んだ行いからの回心、すなわち悔い改め、神に対する信仰、洗礼の真理、按手、復活、永遠における審判です。詳しくは、近くの教会にお出かけください。

これらは、すべて、イエス・キリストの中にあります。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(イエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか。=口語訳聖書)ヘブル12:2


「神に受け入れられる信仰294」9月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「好意を持たれる信仰」です。

初代教会は、互いに愛し合い仕え合う、一致した愛の共同体でした。

「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって、食事を共にし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒2:46-47

イエスは、互いの間に愛があるなら、それによってすべての人がイエスの弟子であることを認めると言われました。」ヨハネ13:35

愛は、すべてにまさるものです。初代教会は、互いの愛が充満し、それゆえにすべての民に好意を持たれました。この好意のことばの意味は、魅力があるということです。イエスの少年時代に、「知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」ルカ2:52

また、初代教会で七人の執事を選ぶときの条件として次のように記されています。

「そこで、兄弟たち、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」使徒6:3

愛に満ちた人は、神と人々に受け入れられ、すべての民に好意を持たれます。この世は、本当は聖霊に満たされて、愛にあふれた魅力ある人を求めているのです。

 

 


「神に受け入れられる信仰293」9月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「大胆な信仰」です。

「御手を伸ばして癒しを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。使徒4:30-31

聖霊に満たされた者の特徴の一つが大胆な信仰です。イエスが十字架につき、甦られるまでの間、弟子たちはローマやユダヤ教の力を、恐れて隠れていました。しかし、約束の御霊に満たされた後は、強大なローマの権力や、ユダヤ教の脅かしも、恐れずに大胆な者となりました。

聖霊はイエスの霊です。主がともにおられる確信が彼らを変えたのです。更に「全き愛は恐れを取り除く。」と、み言葉にあるように人々に対する愛が彼らを大胆な信仰に導いたのです。

迫害や死さへも恐れない働きがキリスト教の歴史です。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア1:9

初代教会の弟子たちや、ヨシュア、モーセと共におられた主が、あなたと共にいます。

聖霊信仰とは、キリストにある大胆信仰です。キリストにあって私は強いのです。


「神に受け入れられる信仰292」9月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「共に喜びともに泣く信仰」です。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12:15(口語訳聖書)

本日とても嬉しいニュースがありました。皆でお祈りしていた祈りが聞かれ、皆で喜びを共有しました。

初代教会の始まりに、関するみ言葉です。

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行われた。信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。」使徒2:42-43 

初代教会は、聖霊によって生まれた愛の教会でした。すべてのものを共有にしていたのです。物を共有にすることは、最初の一時期でしたが、愛の共有は今に至るまで、キリスト教会の本質です。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。ともに喜ぶとき、喜びは、倍加し、泣く者と共に泣く時、嘆きは、半減します。イエス・キリストは、私たちのすべての痛み悲しみを十字架で背負い、取り除いてくださいました。甦られた主は、全てにまさる喜びを与えてくださいました。

キリストの心で互いに愛し合い、互いに仕え合うキリストの共同体として、聖霊に満たされて、世の光、地の塩として多くの人々に仕えたく願います。

本日の信仰は、「共に喜び共に泣く信仰」です。


「神に受け入れられる信仰291」9月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「知恵に満ちた信仰」です。

幼子イエス・キリストに関する記述です。「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」ルカ2:40 

初代教会が、聖霊の力で仲間を増し加え、驚くような速さで成長していったとき、ギリシャ語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人の間に、食物のことで紛糾が起こりました。その時、解決のために、知恵に満ちた七人の執事を選びました。

「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。」使徒6:3

知恵に満ちた人とはどのような人物でしょうか。知恵の泉と呼ばれる箴言には次のように記されています。

「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」箴言9:10

知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。・・・」箴言4:5-8

知恵は、主を恐れることから生まれます。目には見えませんが、愛と義に満ちた神が存在します。このお方を恐れ(畏敬の念)をもち歩むことが、真の知恵の初めです。次に、知恵の霊である聖霊に満たされることです。

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

「知恵に満ちた信仰者」として歩み、幸いな人生となられますようお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰290」9月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「弱い時にこそ強い信仰」です。

”しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。”Ⅰコリント12:9-10

使徒パウロは、「弱い時こそ私は強いのである。」と証しています。自分の無力さ、罪深さを知るときに、神にのみ、頼るからです。イエス・キリストは山上の垂訓と言われるみ言葉の中で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人の者だからです。」マタイ5:3と、言われました。

心が、貧しいとは、砕かれて神以外に頼るお方がいないことを指しています。

さまざまの困難や、苦しみを受けても、心砕かれ神の所に、心が向かい、神に信頼する者は幸いです。「弱い時こそ強い」とは、その意味です。

神の恵みと祝福が、あなたの上にありますようにお祈りします。


「神に受け入れられる信仰289」9月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「主を待ち望む信仰」です。

私の大好きなみ言葉です。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」イザヤ40:31

人生には、様々の問題や困難、試練がつきものです。

このみ言葉の前の節には、次のように記されています。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。」イザヤ40:28-30

何と幸いでしょうか。どんな人も、疲れ、たゆみ、力を失うような時がありますが、しかし、主を待ち望む者は新しい力を得るのです。鳥の王様である鷲は、空高く舞い上がり、すべての問題や困難を、飛び越えてゆきます。この鷲も、年を重ねると、翼もくちばしも、爪も弱ってきます。

しかし、岩の上で翼やくちばしをたたき、古いものをふるい落とすと、新しい翼やくちばしが、生まれ、さらに強くなるのです。神を待ち望む者も同様です。

あなたの、人生にいつも「主を待ち望む信仰」が、与えられますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰288」9月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「約束を握った信仰」です。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31 家族ぐるみの救いは、神の約束です。神は、契約の神です。

人間同士でも、土地の売買や、家の建築の時、契約書を交わします。契約書の中には、価格、期日など、様々の条件が明記され、約束どおりのことが、履行されるのです。

家族ぐるみの救いは、神のみ心です。私たちに必要な条件は、主イエスを信じることです。

最後に、アブラハムの信仰を紹介します。

”彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われているとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。”ローマ4:17-21

約束の神を信じ続け、神を賛美しましょう。


「神に受け入れられる信仰287」9月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「更新され続ける信仰」です。

「また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」マタイ9:17

ここでイエスは、たとえを用いて、二つの新しきことを語っています。

新しいぶどう酒に使われている言葉はneos(初めての新しさ)です。新しい皮袋で用いられている言葉は、kainos(更新される新しさ)です。

イエスの時代、ぶどう酒を造るとき、ぶどうを皮袋に入れて、長い期間、発酵させて製造しました。皮袋は貴重なものでしたので、何度も繰り返し用いました。その時、水やオリーブ油に浸して用いました。そうすると、皮袋が水やオリーブ油よって、新しい弾力の皮袋となり、再使用が可能となったです。

私たちの人生においても、み言葉の水や、聖霊の油に浸される時、もう一度新しく更新され、新しい力に満たされるのです。信仰生活も人生も、長距離走にたとえられますが、絶えず新しく、変えられ続けてまいりましょう。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて(変えられ続けて)行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」Ⅱコリント3:18

主の聖霊の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰286」9月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「成熟を目指す信仰」です。

「むしろ、あらゆる点において成長し、頭なる、キリストに達することができるためなのです。」エペソ4:15 キリストの体なる教会の成長のみ言葉です。

「さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで、荒野にいた。」ルカ1:80 バプテスマのヨハネの少年期のみ言葉です。

イエス・キリストに関しても同じような記述があります。

「幼子は成長し強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」ルカ2:40

本日は「成熟を目指す信仰」について語ります。

人は霊と心と肉体を持つ存在です。肉体の成長は、20歳代になると止まりむしろ、衰えてゆきます。しかし、心と霊の領域は何歳であっても、成長が可能です。人間は、完全(パーフェクト)になることはできませんが、成熟は、可能です。完全なるお方は、神さまのみです。

あらゆる点において成長しなさい。成熟を目指す信仰者になりなさいと、神は願っているのです。特に霊的な成長は神の恵みが働かれるので、信仰の領域です。

昨日、礼拝メッセージで、心の態度の持ち方が、人生を決め、やがては永遠を決めると語りました。ヤコブの手紙より成熟を目指す信仰者が持つべき、三つの心の態度です。

神への態度は「従いなさい、近づきなさい。」サタンに対しては、「立ち向かいなさい。」

自らに対しては、「へりくだりなさい。」です。

詳しくはヤコブの手紙4:6-10をお読みください。更に知りたい方は、教会にお出かけください。もっと成熟を求めるならば、聖霊を求めてください。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰285」9月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「喜び踊る信仰」です。

有名な山上の垂訓に、八つの幸いがあります。第八番目の幸いは驚くような言葉です。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。・・・。」マタイ5:11-12

喜び踊るような幸いとは、どのようなものでしょうか。地上での喜びも幸いも、一時的なものです。しかし、ここでの喜び幸いは、天に通じるものです。

それは、キリストのために、キリストのゆえに受ける困難、苦しみ、迫害です。

キリスト教の歴史には迫害が多くありました。自分のためや、この世のことではなく、キリストのために受ける患難のことです。使徒パウロの告白です。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:4-5

キリストのゆえに喜び踊る者は幸いです。


「神に受け入れられる信仰284」9月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「実を結ぶ信仰」です。

9月も半ばに入り、秋の兆しが日ごとに増してきました。秋は収穫の季節、実を結ぶ時期です。聖書の中には、沢山の実を結ぶことが記されています。

「あなたがたは、『刈り入れ時がくるまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。・・・。」ヨハネ4:35

イエスさまが最も願ったことは、人々の救いです。イエスさまが信仰の目、霊の目で人々を、町々を、見られた時、畑は色づいて収穫の実を結ぶ光景に写ったのです。

私たちもコロナ過ではあっても、イエスさまの心で日本を町々を人々を見るなら、収穫の実を結ぶのが見えるのです。

私たちの教会のビジョンは「日本の救い、町の救い、家族ぐるみの救い」です。

「・・・恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。・・・この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒18:9-10

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31 「実を結ぶ信仰」が、やがて、実際の収穫の実を受け取るのです。アーメン。

 


「神に受け入れられる信仰283」9月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「解放された信仰」です。

メシヤ(救世主)としての、ミニストリー預言の、み言葉です。

「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷づいた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ・・・。」イザヤ61:1-3

イエス・キリストの働きの、大切なことは解放の務めです。では、何から解放されたのでしょうか。多くのことがあげられますが、三つの解放を取り上げます。

第一は人間の持つ罪です。「罪の原語はハマルティア」で的外れという意味が、あります。

神から離れたすべての人は罪びとです。神の形に似せて造られたのに、アダムの犯した罪が、原罪となり、人は罪にと捕らわれてしまったのです。しかし、キリストは、罪からの解放者です。

第二に、罪のもたらす結果の死からの解放です。詳しくは、お近くの教会に行かれることをお勧めしますが、霊と心と肉体の死からの解放です。人の死は肉体だけでなく、霊魂の死があります。肉体はこの世のいのちですが、霊魂は永遠です。キリストは復活の神です。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25 キリストは、霊と心と肉体の死からの解放者です。

 

第三に実際的な、すべての問題「心の傷、恐れ、憎しみ、赦せない心、劣等感、高ぶり、過去のマイナス的経験、将来への不安など」からの解放です。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になるのです。」ローマ8:37

あなたは、キリストによって解放宣言を受けているのです。

 

 


「神に受け入れられる信仰282」9月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「聖別信仰」です。

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよと、主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすればわたしはあなたがたの父となり、あなたがたは私の息子、娘となる、と全能の主が言われる。」Ⅱコリント6:17-18

「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なるものとなりなさい。」Ⅰペテロ1:18

旧約聖書のサムソンはナジル人(聖別された民)として生まれ、超自然的な力に満たされた、イスラエルの士師(救助者)でした。その力の源は神からの聖別でした。しかし、聖別の秘訣である、髪の毛を失った時、力がなくなり、聖別を、取り戻したとき、再び力が戻りました。

同様にクリスチャンの祝福や力の源も、聖別(聖さ・清め)にあります。

聖別には二つのことが必要です。第一は分離です。

コリントで、パウロは彼らから出て行き、分離せよと言われています。当時のコリントの町、人々は道徳的にも、霊的にもとても汚れて罪の代名詞として、コリントが用いられていました。そこから、すなわち罪から分離しなさいと命じたのです。いつの時代でも、この世は、罪(的外れの意味)の誘惑や問題があり、そこから離れることが、聖別です。防御(ディフェンス)の重要性です。

第二は、攻撃的(オフェンス)聖別で、神に近づき、神と常に交わることです。

イエスは山上の垂訓で、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」マタイ5:8と言われました。ここできよい(カサロス)の意味は混じりけがない、一つ心の意味です。即ち、神を純粋に求め、神と一体となることです。神に近づき、神と交わる時、真のきよさが生まれるのです。すべての人間は、罪びとですが、キリストにあるならば、聖霊により、新しい者に変えられるのです。その時、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実を結ぶのです。

 


「神に受け入れられる信仰281」9月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「決心する信仰」です。

わたしはルツの信仰にとても感動を覚えます。

ルツは異邦人でモアブの女性でした。イスラエル人の妻になりましたが、夫を若くしてなくし、やもめになりました。義母のナオミの言葉です。「あなたはモアブに帰りなさい。」

しかし、ルツは堅く決心をして、イスラエルの神とナオミに従いました。

ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所に私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神はわたしの神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。し死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった。”ルツ記1:16-18

大切なことを決めるときには、定まった心が必要です。神を信じる決断は永遠を決定します。ルツのように、「あなたの神はわたしの神」とイエス・キリストへの信仰を堅く決心する者は幸いです。

「人はたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」マタイ16:26

あなたの決心が、神に向けられますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰280」9月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「委ねる信仰」です。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」Ⅰペテロ5:7

委ねることは、あきらめることではありません。委ねることには、神への信仰(信頼)の思いがあるのです。神への全き信頼には二つの要素があります。

第一は、神の御性質です。神は良き御方、善なる愛と真実に満ちたお方です。

イエス・キリストは、ヨセフの息子として、この世においての仕事は大工さんでした。

もし人が家を建てるならば、相手の建築家が真実であること、不正や偽りのないことを条件として契約します。

第二は、建築家の能力です。しっかりした家を建てる技術や能力があるのかが条件です。

人生に思い煩いや、悩み、試練や困難はつきものです。イエス・キリストにいっさいをゆだねてください。なぜなら、キリストは良き御方であり、全能なる神様です。

ペテロはいっさいの思い煩いを神にゆだねよ。神があなたのことを心配してくださると、証しています。神の与えてくださる安息の人生を歩みましょう。ハレルヤ!主を賛美します。


「神に受け入れられる信仰279」9月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「神に近づく信仰」です。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブ4:8

愛が深まるとき、互いの距離が近づきます。神は人が近づくことを願っておられます。人が一歩近づくならば、その何倍、何十倍も神が近づかれるのです。

神に近づく者は、第一に神がおられること、常に共にいてくださることを信じるのです。

次に、神に近づき求める者に、報いて下さり、答えてくださることを、確信するのです。

わたしの大好きなみ言葉です。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう。」エレミヤ33:3

この世のお父さんが、子供が近づいてくるのを喜ぶように、良きお父さんなる神は、あなたが、神を求め近づくのを待っておられるのです。

インマヌエル(共にいます神)なる主は、あなたの存在そのものを最も喜ばれるのです。


「神に受け入れられる信仰278」9月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「真理の信仰」です。真理を現わす三つのものに基づいた信仰です。

第一はイエス・キリストです。    

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

第二はみ言葉です。

そこでイエス・・・言われた・「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8:31-32

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」ヤコブ1:18

第三は御霊です。「わたしが父のみもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊が私について証します。」ヨハネ15:26

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」ヨハネ16:13

共通して言えることは、神のことば、神の御霊が、すなわち、真理が見える形で人の姿を取られ、真理を見せてくださったのが、イエス・キリストです。

イエスを主として信じ、聖書のみ言葉に堅く立ち、聖霊に満たされる「真理の信仰」で罪と死とサタンに打ち勝つ信仰者になりましょう。

主の祝福をお祈りしています。

 


「神に受け入れられる信仰277」9月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「揺り動かされない信仰」です。

「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。」ヘブル12:28

この地上のものは、すべて人も国もあらゆるものが揺り動き移り変わっていきます。

今、新型コロナ感染症で全世界が振るわれています。多くの人や会社、国までもが、今まで立てていた計画が崩れ、まだ先行きが定まりません。

神の国は震われることがありません。自然界に大地震や気候変動、天変地異があるように、人生にもさまざまの問題困難があります。揺り動かされない土台の上に家を建てるなら安全です。イエスは岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のたとえをもって、嵐や洪水が来ても倒れない岩の上に家を建てなさいと言われました。(マタイ7:24-27参照)

現在、世界中が振るわれています。これから先も揺れ動く時代が続くでしょう。

不動の岩であるイエス・キリストの上に人生を築かれることを、お祈りしています。

「イエス・キリストはきのうもきょうもいつまでも、同じです。」ヘブル13:8


「神に受け入れられる信仰276」9月1日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「定まった信仰」です。

「神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ、立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめ(暁)をよびさまします。主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。」詩篇57:7-11(口語訳聖書)

この詩篇はダビデが、サウル王に命を狙われ、洞穴に逃れた時に、歌ったものです。

ほら穴の賛美と呼ばれ、ミクタムの歌とも呼ばれています。ミクタム「黄金の歌・神の秘密」の意味があると言われています。主君サウル王の妬みにあい、死の恐怖や孤独と不安の中、神の恵みや偉大さを思い起こしたとき、心が定まったのです。新改訳聖書では、「私の心はゆるぎません。」と訳されています。

人生においては様々の戦いや問題、試練、悩みがあります。しかし、目には見えませんが、いつもともにおられ、すべてを治め、支配しておられる神に心を定めていただくならば、ダビデのように主を賛美する者に変えられます。振り子のように心が揺れ動くならば、「心が定まる」まで、主を求め主の声を聞きましょう。「これが道だ。これに歩め。」と。

主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰275」8月31日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「刈り取り信仰Ⅱ」です。

聖書で刈り取ることの多くが、魂「人々」の収穫のことです。

主がシオンの捕らわれ人を帰されたとき、私たちは夢を見ているようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなる事を成された。」主は私たちのために大いなる事を成され、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕らわれ人を帰らせてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる。”詩篇126:1-6

神の最大の願いは人々の救いです。人の最大の幸いは主イエス・キリストの救いです。

信仰をもって福音の種を蒔き、信仰の祈りをもって人々の救いの大収穫を願う者です。

私たちの教会のビジョンでありモットーは、「日本の救い、町の救い、家族ぐるみの救い」です。種まく信仰と刈り取り信仰を働かせて、救いの大収穫を祈り、あらゆる機会に福音を伝えましょう。


「神に受け入れられる信仰274」8月30日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「刈り取り信仰」です。

自然界における「種の法則」の原因が蒔くことであり、結果が刈り取ることです。

霊の法則にも同じことが言えます。聖書が語っていることです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」ガラテヤ6:7-9

人の一生は、長いようでもあっという間に、過ぎていきます。人生の収支決済の日が、すべての人に訪れます。人生の会計報告書の提出です・

イエス・キリストは代価を払って、十字架で、罪の負債を払い、人の蒔いたすべての罪から救ってくださったのです。

御霊に蒔く者は御霊から永遠に命を刈り取ると聖書は語っています。この世の人生は70年80年です。長くても100年でしょう。しかし、永遠が待っています。

キリストによる永遠の救いを刈り取られることをお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰273」8月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「種をまく信仰」です。

わたしの大好きなみ言葉です。

「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰ってくる。」詩篇126:5-6

自然界には「種の法則」があります。それは、蒔いたものを刈り取ることです。教会のフェンスに、毎朝、色とりどりの美しい朝顔の花が咲き楽しませてくれています。これは、5月のゴールデンウイーク前に種をまいた結果です。人生も同じように蒔いたものを刈り取るのです。

第一にどのような種を蒔いているかです。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」ガラテヤ5:22-23

御霊にまく者は御霊の結ぶ実を刈り取ります。人が真の神なるイエス・キリストを信じ、御霊と共に歩むとき、御霊の性質なる実が結ばれ、幸いな人生へと導かれるのです。

第二に、「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かにまく者は豊かに刈り取ります。」Ⅱコリント9:6

何事にも、心をこめ、できることを精一杯成すとき豊かな実を刈り取るのです。

人は生涯様々の種を蒔き続けます。神と人とに喜ばれる種を蒔いて、「良くやった。忠実な僕よと。」主からお褒めの言葉をいただく、人生の金メダルをいただきたいものです。

 


「神に受け入れられる信仰272」8月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「キリストと苦難を共にする信仰」です。

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。」ピリピ1:29

イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」マタイ16:24-25

有名なお言葉です。キリストはすべての人々の救いのために十字架を背負われました。十字架は苦難の象徴です。ここで、イエスは弟子としてついて来たいと思うなら、自分に与えられた十字架(苦難や使命)を負って従ってきなさいと言われたのです。

弟子たるものはキリストを信じる信仰だけでなく、苦難も受け取る者です。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」Ⅱコリント4:17

 

「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をもともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」ローマ8:17-18

キリストにあっての軽い苦しみは、永遠の重い栄光です。ハレルヤ!です。


「神に受け入れられる信仰271」8月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「心砕かれた信仰」です。 

”いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住み、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」イザヤ57:15

心砕かれることは、大きな痛みが伴います。しかし、時として心砕かれることが必要です。なぜなら、すべての人は罪があり、その中心は自我だからです。

本日のみ言葉で、神は心砕かれへりくだった人とともに住み、砕かれた人の霊と心を生かすと告げています。神に用いられたすべての人が生まれつき、神の御心の器ではありませんでした。しかし、神の前に、自我が砕かれ、謙遜や柔和さなど、神の品性を身に着けたのです。

使徒パウロの告白です。「・・・そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ローマ5:3-4

人生における、主にあって心砕かれる経験は宝です。なぜなら、神の御性質に変えられるからです。潤った土地に多くの植物が茂り、花を咲かせ実を結ぶように、豊かな水のあるところに

多くの生き物が生息するように、砕かれた霊と心に、神と神の祝福が満ちるからです。

砕かれることは幸いです。

 


「神に受け入れられる信仰270」8月25日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「時をわきまえた信仰Ⅱ」です。

昨日に引き続き、時をわきまえた信仰の二回目ですが、時を生かすとは贖うことであると、語りました。第一にすべて時の支配者である、イエス・キリストの御名によって祈ることです。時間、空間、距離を越えて神が働かれる支配権に委ねることです。

第二に、一日の初め、一週間の初め、年の初め、物事全ての初めを神にささげることです。

初穂が清ければすべてが清い。初めを捧げるとき、残りの者や必要を買い取ることとなるのです。

第三にすべての時の中に主を置き、主を通してみることです。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので私はゆるぐことがない。それゆえ私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」詩篇16:8-9

わたしのモットーのみ言葉です。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」

Ⅰテサロニケ5:16-18

過去については、すべてのことを感謝します。将来に対しては、絶えず祈ります。そして、今に対してはいつも喜んでいることです。」

「神のなさることは、時にかなって美しい(うるわしい)からです。」伝道者の書12:11


「神に受け入れられる信仰269」8月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「時をわきまえた信仰です。」

知恵者中の知恵者、ソロモンは伝道者の書で時について語っています。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬるのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」伝道者の書3:1-8

孫氏は戦いの勝利の条件として、三つのことを上げています。

「天の時、地の利、人の和」です。聖書は「今の時を生かして用いなさい。」エペソ5:16

と述べています。時は、今しか、つかむことはできません。過去はすでに過ぎ去り、未来はまだ来ていません。けれども、過去と未来をつなぐのが今です。過去のすべての良きも悪しきも含む全ての経験を、今生かすことができるのです。「今の時を生かしなさい」とは今の時を贖うという意味です。代価を払って買い取ることが贖いです。では、最後にどのようにして時を贖うのでしょうか。詳しくは次回に宣べますが、本日は最も中心となることです。時を支配しておられる神とともに、生き動き働くことです。イエスはガリラヤのカナで最初のしるしとなる奇跡を行ないました。水をぶどう酒に変えられ、神の栄光を現されたのです。ぶどう酒がなくなった時、そこに同席していた母マリヤの訴えに、「わたしの時はまだ来ていません。」と言われたのです。しかし時が満ちた時、イエスの言葉に従った僕たちを通して、水がぶどう酒に変わり神の栄光が現わされました。

あなたの人生のすべての時に、神の恵みの時が与えられますことを、お祈りしています。


「神に受け入れられる信仰268」8月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰Ⅵ」です。

イエスは「信じる人々にはしるしが伴います。」と言われました。

 

そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。”マルコ16:20

しるしとは「証拠としての奇蹟」です。人が罪赦され、新しく生まれ変わるのは最大の奇蹟です。キリストの福音にはその力があります。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

私自身の証になりますが、高校3年生18才の時にイエス・キリストを信じて救いを体験いたしました。永遠の命の確信、罪赦された喜び、人と比べることから生まれる劣等感や優越感からの解放、神と人々から愛されている喜び、数え上げればきりがありません。

 

このブログを見てくださるお一人びとりの上に、神の最大のしるし、イエス・キリストの救いの恵みが与えられますことをお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰267」8月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰Ⅴ」です。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。・・・また、病人に手を置けば病人はいやされます。」マルコ16:17-18

聖書の中には沢山の奇蹟があり、多くのいやしの御業が記されています。イエスが、天にあげられる前に約束された最後のしるしは病人のいやしです。人間は霊と心と体を持つ存在です。ここでのいやしとは、すべての領域を含むものと考えられます。ある人は肉体は健康でも、心が病んでいる人がいます。反対に心は健康でも肉体が病んでいる場合があります。また、人間は霊的存在者ですが、霊が弱ったり病んでいる場合があります。

使徒パウロは次のように述べています。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められることがないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」Ⅰテサロニケ5:23

平和の神を信じて、神のいのちをいただく時、罪が清められます。まず、罪からの救いが健全な霊と心と体に導きます。もし病める部分があるなら、イエスは十字架で罪と病のために贖いの代価を払われた救い主、いやし主です。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:4-5

病める人のために、イエスの愛と御名によって祈ってください。主が癒し主です。


「神に受け入れられる信仰266」8月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰Ⅳ」です。

「蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも害を受けず」は、とても過激なことばですが、これについては、諸説ありますが、文字通りのことではなく、この言葉に含まれることが考えられます。

神を信じる者は、他の人々にはできない、また持てない、人生を最良に処理し、人生におけるさまざまな悪しき出来事さえ勝利し、益に変える力に満ちていると解釈します。

弟子たちは、イエスの言葉に神の権威を認め、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15の宣教命令に従いました。

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は、彼らとともに働き、み言葉に伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」マルコ16:2

キリストに従い福音を語る者にはしるしが伴います。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも同じです。」ヘブル13:8

キリストを信じるあなたの上に、神の祝福としるしが伴うことをお祈りしています。

 


「神に受け入れられる信仰265」8月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰Ⅲ」です。

前回は、イエスが「悪霊を追い出す権威」をしるしとして付与されたことでした。

次には、「新しい言葉」を語るしるしですが、二つの面が考えられます。

第一は、ここでの言葉に、ギリシャ語のグロッサが用いられています。グロッサの意味は前に述べたように、「ことば、他国のことば、異言、舌」などがあります。

異言は、聖霊の満たしの最初のしるしです。すなわち聖霊の満たしによる新しい言葉です。

詳しくは8月16日の「神に受け入れられる信仰262」をご覧ください。新しいことばとは、最大、最善、最高の助け主、聖霊充満のしるしです。

第二は言葉の清めとコントロールです。

ヤコブの手紙3章に述べられているように、舌「ことば」を不義の世界から守り清めて、有益な言葉を語り、神のご支配の中に導かれる者としてくださるしるしです。

ダビデは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように(喜ばれますように)。わが岩、わが贖い主、主よ。」詩篇19:14と祈りました。

舌(ことば)を制する者は人生を制します。あなたの上に、主からの「新しいことば」愛の言葉、感謝のことば、励ましのことば、信仰のことばが、与えられますことをお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰264」8月18日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰Ⅱ」です。

イエスは信じる者には、しるしが伴うと言われました。その第一は、悪霊を追い出す権威の付与です。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」エペソ6:12(口語訳聖書)

人間は「霊と心(たましい)と体」を持った存在です。Ⅰテサロニケ5:23

霊的戦いに勝利しなければ、人生の本当の救いも勝利も勝ち取ることができません。サタン(悪魔)、悪霊は存在します。悪魔を過大評価して恐れる必要はありませんが、過小評価して侮ってはなりません。イエスは十字架と復活により、すべての罪と死とサタンの頭を打ち砕いてくださいました。

主イエス・キリストの御名にはすべての者の上にある権威があります。

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエスキリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」ピリピ2:8-11

イエスを主と告白してください。主イエス・キリストの御名によって悪しき霊を追い出し、神の勝利を宣言してください。神のしるし、御業が現われるからです。


「神に受け入れられる信仰263」8月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「しるしの伴う信仰」です。

イエスは復活後、天に昇られる前に弟子たちに大宣教命令を告げられ、次のように言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。」マルコ16:17-18

とても強く驚くようなお言葉です。イエスキリストの名による権威の力です。イエス・キリストの御名には力があります。神のしるし(証拠としての奇蹟としるされています。)が伴うのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとにいくからです。」ヨハネ14:12 

イエスの約束は真実です。イエスの約束の言葉を信じる者は幸いです。今の世にキリストのしるしが必要です。なぜなら、ある人々はしるし(証拠としての奇蹟)を見なければ信じないからです。しかし、神は、無意味なわざは行われません。神のみ心にかない、人々の救いの必要がなされ、神の栄光が現わされるならば働いてくださいます。

具体的な内容については、次回取り上げます。

あなたの上に「しるしの伴う信仰」が実現されますことをお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰262」8月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「体験信仰Ⅶ」です。

三つの体験信仰「聖霊信仰」「み言葉信仰」「十字架信仰=血潮信仰」について繰り返し述べていますが、今回は「聖霊信仰」の最初のしるしである、「異言」を取り上げます。

使徒の働きの中で、2章、4章、8章、10章、19章の五か所で聖霊降臨が記されています。

三か所では、はっきりと異言が語られたと記され、他の2か所でも異言が語られていることが推察できます。「なぜ 異言なのでしょうか。WHY TONGUES」。そこには明確な、神の理由があります。

①最初のしるしとしての異言。聖霊に満たされた証のしるしが必要です。自他ともに、はっきりとわかるしるし(証拠)が異言なのです。

②異言は霊的な徳を高めます。(パウロの願いと感謝)Ⅰコリント14:2-5、15,18

③異言の祈りは御霊の深いとりなしの領域に導き入れます。ローマ8:26-27

「舌=グロッサ=言葉=異言」は体と心と霊の命の源です。肉体の命は食物にによります。舌を通して味わい食べるのです。心「精神文化」を育てるのは、言葉から生み出されます。良き書物を食べれば「精神」が養われ育つようにです。霊は神の考えを持ち、神と人格的な交わりをするとき、霊的徳が高まり、神のいのち(神の霊)にあずかるのです。

 

⑤舌はコントロールしにくい器官ですが、船の舵のように小さいですが、人生全体を支配します。ヤコブ3:24

⑥舌は不義の世界ですが、舌が清められるとその人自身が清くされます。ヤコブ3:5-12

⑦聖書の実例として、イザヤは唇の罪が清められました。イザヤ6:1-8

⑧異言の祈りは、全き安息(休み)を与えられます。イザヤ28:11-12

⑨ピリピ教会を生み出したパウロとシラスの祈りと賛美 使徒16:30-34

 聖霊に満たされた祈りと賛美は異言の祈りと霊の賛美であったと思われます。(個人見解)

(詳細をお知りになりたい方は。聖書を熱心にお読みください。また、聖霊を認めるお近くの教会にお出かけください。)


「神に受け入れられる信仰261」8月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「体験信仰Ⅵ」です。

昨日、体験信仰は、世に打ち勝つ力であることを申し上げました。

さらに、このキリストにある「聖霊信仰」「み言葉信仰」「十字架信仰=血潮信仰」は、永遠のいのちを与えることをあかししています。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者は命を持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。」Ⅰヨハネ5:11-13

御子イエスを、主として救い主として受け入れた者は、心に証し(体験信仰)を持っています。

「聖霊とみ言葉と十字架」からくる体験信仰です。「御子を持つ者はいのちを持っており、御子を持たない者はいのちを持っていません。」使徒ヨハネはこの手紙の中心として、このことを伝えたのです。Ⅰヨハネの手紙のカギの句として、5:13節(赤く示した部分)を強調しています。

あなたの上に、御子のいのちが与えられ、そしてこのいのちが満ち満ち溢れ、勝利の人生を送られますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰260」8月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「体験信仰Ⅴ」です。

昨日は三つの体験信仰、「聖霊信仰」「み言葉信仰」「十字架信仰=血潮信仰」を取り上げました。この信仰は、何をもたらすのでしょうか。使徒ヨハネは、同じ章の前の節でこのように述べています。

「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」Ⅰヨハネ5:4-5

「聖霊とみ言葉と十字架」の「体験信仰」こそ、世に勝利する秘訣です。

使徒パウロは次のように告白しています。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:37

この世には、様々な戦いや困難や悩みがあります。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか。迫害ですか。飢えですか。裸ですか。危険ですか。剣ですか。・・・」ローマ8:35 このような世がもたらす、すべての問題に圧倒的な勝利をもたらすのが、キリストにある「聖霊信仰」「み言葉信仰」「十字架信仰」です。

あなたの上に圧倒的な勝利の人生が与えられますことをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰259」8月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「体験信仰Ⅳ」です。

「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。・・・御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。・・・」Ⅰヨハネ5:7-10

キリストを信じた者は、心の中にあかし(体験信仰)を持っています。使徒ヨハネは、三つのあかしをあげています。

第一は御霊です。「聖霊信仰」です。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒1:8

第二は水、ここではみ言葉のことです。「み言葉信仰」です。

「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって教会をきよめて聖なるものとするためであり、またしみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」エペソ5:26-27(口語訳聖書)

第三は血すなわち、「十字架信仰」です。

「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」Ⅰコリント1:18

「聖霊信仰」「み言葉信仰」「十字架=血潮信仰」の三つの体験信仰が、キリストの証人の持つべき、証しです。あなたが、キリストの証人となり、世の光、地の塩となられることをお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰258」8月11日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「体験信仰 Ⅲ」です。

イエスは昇天の際、大宣教命令を弟子たちに告げ、宣教を託されました。

マタイ福音書では、「・・・それゆえ、あなたがたは行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。」マタイ28:19

マルコ福音書では、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16:15

ヨハネ福音書では「・・・私の羊を飼いなさい。」ヨハネ21:17

ルカによる福音書では、「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」ルカ24:46-48

ここで証人とは、見た人、聞いた人、触れた人、すなわち体験し、救いを受けた人のことです。イエス・キリストの十字架で罪赦され、新しい復活の命を受けた者が証人です。子供も、若者も、老人も、罪を赦され、救いの体験を受けた者が、キリストの証人です。

「あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。」Ⅰヨハネ5:7-8 次回はこのことを語ります。「救いの体験信仰」に堅く立ちましょう。

 


「神に受け入れられる信仰257」8月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、前回に続き「体験信仰Ⅱです。」

「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良いものを与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ルカ11:13

いつの時代、どこの国でも、親は子どもの幸いを願い、良きものを与えようとします。

まして天の父なる神は、良いお父さんです。神は最大、最良の贈りものである聖霊体験を願っているのです。「体験信仰」最大の祝福が聖霊のバプテスマ(満たし)です。イエスは繰り返し述べられました。

「しかし、その方、真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導きます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」ヨハネ16:13

神の愛も力も知恵も、聖霊様はお持ちです。この方に内に住んでいただくことが聖霊体験です。ぜひ、聖霊と共に歩み、働き、勝利の人生、生活を送ってください。また、多くの人々にキリストを証しする証人となってください。主の御名により祝福いたします。


「神に受け入れられる信仰256」8月9日             

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、神に触れる「体験信仰」です。

「私たちは、主を知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光にように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」ホセア6:3

ここで主を知るという言葉は、ヤダというヘブル語で体験して知るという意味です。

新約聖書で多く用いられている「知る=オイダ」はギリシャ語ですが、同様に体験して知るの意味です。「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」ヨハネ10:4

 

「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」ピリピ4:12

見たこと、聞いたこと、触れて体験したことが、本当の信仰を生み出します。神は生きて祈りを聞き、実際に働き、「体験信仰」に導いてくださいます。

「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方は、どういう方なのだろう。」マルコ4:41 

嵐の荒れ狂う舟の中で、弟子たちはイエスの権威と力を体験しました。どんなときにも、どんな場所にも、あらゆる環境の中に神はともにおられます。神体験の信仰者になってください。主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰255」8月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「十字架信仰 Ⅲ」です。

ガラテヤ書には、三本の十字架が立っています。

第一に、私たちの古き人がキリスト共に十字架で死んだことです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」ガラテヤ2:20

第二は、自分の肉(罪の性質)をキリストと共に、十字架につけてしまったことです。

「キリストイエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」ガラテヤ5:24

第三の十字架です。

「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」ガラテヤ6:14

ガラテヤ書はローマ書と並び、信仰による救いの根本を示しています。

使徒パウロは、異邦人教会のガラテヤ(小アジア➡現在のトルコ)人に対し、十字架の福音信仰を伝えたのです。

第一は、古き自分自身がキリストと共に十字架で死んだこと。

第二は自分の肉の性質が十字架につけられたこと。

第三はこの世が私に対し十字架につけられ、私もこの世に対して十字架につけられたことです。十字架は、死の場所です。古き自分、肉の性質、この世をキリストと共に、十字架につけましょう。十字架が、新しい復活のいのちを生み出すのです


「神に受け入れられる信仰254」8月5日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる神方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「十字架信仰Ⅱ」です。

十字架には沢山の真理、意味があります。最大の祝福はすべての罪からの救いです。

イエス・キリストは全人類の罪と病を背負い、ご自分の命を捨ててくださいました。

しかし、今度は私たちが負うべき十字架があるのです。

”それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」マタイ16:24-25 

キリストだけに十字架を負わせるのでなく、自分に与えられた十字架を負う者が、キリストの弟子なのです。イエスは復活後、天にあげられる前、大宣教命令を示されまし

 

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、またわたしが命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」マタイ28:19-20

 

十字架信仰とは、キリストの弟子として、自分の十字架を負いキリストに従う信仰です。


「神に受け入れられる信仰253」8月4日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは「み言葉信仰 Ⅲ」です。

昨日のみ言葉はロゴスでしたが、今回はレーマです。

ロゴスがみ言葉全体を現すのに対し、レーマはその時に必要な言葉です。

レーマの意味は「霊に息吹かれた言葉、生きた必要な霊の言葉」です。

食料(お米)にたとえるならば、ロゴスは蔵に収めているお米全体であり、レーマはその時、食べる日々の糧のようです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(レーマ)による。」と書いてある。マタイ4:4 ここでの言葉はレーマです。

イエスは山上の垂訓で、「主の祈り」を示され、日ごとの糧を与えてくださいと祈られました。日々のディボーションをとおして、その日に、その必要に食べるみ言葉がレーマです。

沢山のみ言葉(ロゴス)を蓄え、その日その時、聖霊に息吹かれた必要のみ言葉がレーマです。聖書を通読することは、ロゴスを沢山、蔵に収納することです。その中から、日用の糧や問題や必要の生じた時に食べる言葉がレーマです。

神ご自身なるロゴス「神の考え、思考、思想」で思いを満たし、その時に必要なレーマをいただき、満たされた勝利の人生を過ごす者は幸いです。


「神に受け入れられる信仰252」8月3日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、昨日に続く「み言葉信仰Ⅱ」です。

新約聖書において神の言葉は、主に二つの言葉が用いられています。ロゴスとレーマです。本日はロゴスを取り上げます。ロゴスとは「ことば、考え、思想、思い、思考」などの意味があります。代表的で有名な、み言葉は次の聖句です。

「初めにことば(ロゴス)があった。ことば(ロゴス)は神とともにあった。ことば(ロゴス)は神であった。」ヨハネ1:1 このみ言葉を通して、神は言葉なるお方であり、「考え、思想、思い、思考」をお持ちであることがわかります。

天地創造は神の考えの成就です。

”神が「光よあれ。」と仰せられた。すると光ができた。”創世記1:2

イエス・キリストが、人になられたお言葉です。

「ことば(ロゴス)は人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ハネ1:14 神(ロゴス)が人になられたイエス・キリストの受肉です。

ロゴスとは神の言葉全体を現し、聖書が神の言葉です。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16-17

私たちの人生を信仰生活を、神のことばで、すなわち考えや思想、思考で満たすとき有益となるのです。

ぜひ、あなたの考え方を聖書のみ言葉で満たし、あなたの行動を神の考え、思いで満たしてください。順境の時も、逆境の時も、健康の時も、病めるときも神の考えに生きてください。

神があなたと共に働いて幸いな者としてくださいますようお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰251」8月2日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、神の言葉である聖書を土台、柱とする「み言葉信仰」です。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」ヘブル4:12 

霊と魂、関節と骨髄の分かれ目は、現代医学やあらゆる技術力を持っても判断が困難です。しかし神の言葉には力があります。人生の中で起こる様々の必要や問題に対して、「これが道だ。これに歩め。」とナビゲーターのように働き導いてくださるのです。

”イエスは答えて言われた。「人はパンだけで、生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。”マタイ4:4

パンすなわち、この世における肉体を生かす食物や、精神を満たす知識やあらゆる事柄なども必要ですが、それ以上に絶対不可欠な食物が神のみ言葉です。

「命を与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」ヨハネ6:63

御霊に啓示された神の言葉、すなわち「み言葉信仰」が、皆様の生涯を豊かに祝されますようお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰250」7月31日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「十字架信仰」「復活信仰」とともに、キリスト教信仰の本質である「聖霊信仰」です。

イエスは十字架につく前の夜、最後の晩餐で、弟子たちに繰り返し言われました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です…その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」ヨハネ14:16-17

 

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネ14:26

 

「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについて証します。」ヨハネ15:26

 

「しかし、その方、すなわち真理の御霊がくると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがておころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。」ヨハネ16:13-14

なぜ、イエスはこれほど沢山、繰り返し聖霊についてかたられたのでしょうか。それは信仰生活を生きるのに絶対必要不可欠だからです。「御霊に満たされなさい。」エペソ5:18

は命令文です。神の愛の命令です。御霊に満たされた信仰は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結びます。」ガラテヤ5:23-24

その結果、勝利と祝福の人生が約束されるのです。「聖霊信仰」に堅く立ちましょう。


『神に受け入れられる信仰249」7月29日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、昨日の「十字架信仰」と共に、すべての人々が持つべき「復活信仰」です。使徒パウロは述べています。

「私があなたがたにもっともたいせつなこととして、伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと・・・」Ⅰコリント15:3-4 

キリストの福音の中心は、「十字架と復活」です。ここに、すべての罪の赦しと永遠の救いがあるからです。世界中に多くの宗教が、ありますが「十字架と復活」はありません。

キリストは、全人類の罪の身代わりとして、十字架で死なれましたが、死と罪とサタンを打ち砕いて甦られたのです。この世のすべての人は罪びとです。そして罪の代価として死(霊と心と肉体の滅び)があります。しかし、これらすべてに勝利したのがキリストの復活です。この福音を信じる者は、キリストと共に復活するのです。初代教会のクリスチャンは、大迫害の時代にもかかわらず、「復活信仰」に固く立って、死をも恐れずキリストを伝えました。そして、福音を信じたものはみな、救いを受けました。今日も同じです。十字架と復活が、人を救い、罪を赦し、解放するのです。ぜひ、あなたもこの福音(十字架と復活)を心に受け入れてください。また、救われた者はこの福音を宣べ伝えてください。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25


「神に受け入れられる信仰248」7月28日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「十字架信仰」です。

救いに関する福音の中心は、十字架と復活です。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」Ⅰコリント1:18

使徒パウロの告白です。

「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかしユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」Ⅰコリント1:22-24

「なぜなら、私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」Ⅰコリント2:2

十字架は、神の愛と神の義が集約された場所です。すべての人を救いに導くため、神が御子キリストの命を捨てるほど、愛してくださったのです。しかし、義なる神は、人間の罪をキリストにすべて負わせ、キリストが身代わりに死んでくださったのです。

キリストの十字架を信じる者は罪赦され、救われるのです。どんな人のどんな罪でも、神の前に、悔い改め、キリストを信じるなら救われます。十字架をいつも、信仰生活の中心に置く者は幸いです。あなたの上に十字架の恵みがとこしえにありますようお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰247」7月27日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「共に喜び共に泣く信仰」です。

止揚学園院長の福井達雨氏は、著書の中で、だれだれの「ため」にではなく、だれだれと「共に」が大切であると強調されています。み言葉は語ります。

「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ12:15(口語訳聖書)

「ためには」は外側からの行為ですが、「共には」は内側から一緒に共有する行為です。

喜びを共に共有するとき喜びは倍加し、悲しみや苦しみを共有するとき、悲しみ、苦しみは半減します。初代教会は、すべての者を共有する共同体でした。

「信者となった者たちはみな一緒にいて、いっさいのものを共有していた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じてみなに分配していた。そして、毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」使徒2:44-4 

これは原始キリスト教会の初めであり、今は、すべて同じようにはできませんが、その精神(スピリット)は同じです。彼らは、物を共有しただけでなく、喜びも悲しみや苦しみも共有でした。家族であるならすべてが共有であるように、キリストにあって、神を信じる者は、神の家族です。

「喜ぶものと一緒に喜び、泣く者と一緒に泣く者」を、神は求めておられます。そのようなクリスチャンでありたいと願う者のひとりです。

 


「神に受け入れられる信仰246」7月26日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「主を支えとする信仰」です。

本日の聖書ディボーションのみ言葉です。

「私のわざわいの日に彼らは立ちはだかりました。けれども、主は私の支えとなられました。主は私を広いところに導きだしてくださいました。主が私を喜びとされたからです。」詩篇18:18-19 ダビデには多くの困難、苦しみ、問題がありました。

「けれども、主は私の支えとなりました。」と告白しています。私たちの人生にも、多くの災いや、問題が襲ってきます。ダビデのように、主を支えとする者は、幸いです。

「主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」詩篇18:2

あなたの支えは何でしょうか。いつまでも変わることなく、いつでも、どこにでもともにおられ、最善を成して下さるお方が、真の神です。

あなたの上に主の御手と御目が注がれますこと、お祈りしています。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」民数記6:24-26


「神に受け入れられる信仰245」7月24日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは「賞を得る信仰」です。

昨日、東京オリンピックの開会式が持たれ、本日より、本格的な競技が始まります。

コロナ過のオリンピックですが、感染が守られ、すべてのアスリートが全力で、良きパフォーマンスを発揮されることを望みます。

さて、聖書でも信仰を競技にたとえている箇所があります。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」Ⅰコリント9:24

「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」ピリピ3:14

賞(栄冠)を得るためには、何が必要でしょうか。第一に目標がはっきりしていることです。私たちの最高の目標はキリストであり、天の御国です。第二に栄冠を得るためには最後まで走りぬくことです。この世では、戦いがありますがゴールを目指して主と共に、多くの仲間と共に走れる幸いに、感謝です。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ヘブル12:1

第三に、最大の助け主、聖霊様があなたの内に、周りにいつも共におられます。ハレルヤ!

 


「神に受け入れられる信仰244」7月23日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「成熟を目指す信仰」です。昨日は「幼子のような信仰」を語りました。これは幼い信仰とは異なります。「幼子のような信仰」を持ちつつ更に成長した信仰を目指すのです。

「ですから、私たちはキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」ヘブル11:6 

ここで述べている初歩の教えとは、基本の教えを指しています。

「死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえの裁き」の六つです。これは使徒信条にも挙げられているキリスト教の根本教理です。これらの土台の上に、成熟を求めていくのです。

使徒パウロが、弟子テモテに送った言葉を最後に贈ります。

「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」Ⅰテモテ6:11-12


「神に受け入れられる信仰243」7月22日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「幼子のような信仰」です。

弟子たちが、「いったい天国ではだれがいちばん偉いのですか。」と尋ねました。するとイエスは、子どもたちを呼び寄せ、そして言われました。「よく聞きなさい。心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。幼子のように、自分を低くする者が、天国で一番偉いのである。」マタイ18:4(口語訳聖書)

 

”「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないで私のところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。”マタイ19:14ー15

天の御国は幼子のような心を持っている者の国だと語られたのです。では、幼子の心とはどのようなものでしょうか。

第一に、純粋な心です。大人のように世間体や周囲の目を気にせず、心のままを願い思うのです。第二に無心の心です。損得や利害を計算せずありのままを願うのです。第三に豊かな感情をそのまま表し、喜怒哀楽をストレートに持つのです。最後にへりくだった、謙遜な低い心のことです。ここでは、幼子のマイナス面ではなく、良いところをイエスは見ておられるのです。

山上の垂訓の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」マタイ5:3

いつまでも、幼子のような純粋な心の信仰者でありたいものです。


「神に受け入れられる信仰242」7月21日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「的を得た信仰」です。

人間の持つ最大の問題は、罪からの救いです。新約聖書で罪は、ギリシャ語で「ハマルティア」という言葉が用いられていますが、その意味は的外れです。どんなに熱心に働き、努力しても的が外れていたら、全ては水の泡です。同様に信仰も、神のみ心に添い、的を得た信仰でなければなりません。イエスは山上の垂訓の祈りの中で、「・・・御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。・・・」マタイ6:10と祈られました。

ダビデも「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」詩篇40:8とうたいました。

”あるとき、イエスのもとにひとりのらい病人(ハンセン病)が来て、ひれ伏して「主よ。お心一つで、私を清めることがおできになります。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「私の心だ。きよくなれ。」と言われた。するとすぐに彼のらい病はきよめられた。”マタイ8:2-3 神のみ心を知り、歩む信仰は、神に受け入れられます。そのために絶えず主と交わり、十字架の葬りを知り、尊いナルドの香油をイエスにささげた、ベタニヤのマリヤのように、「的をとらえた信仰」に歩みたいものです。


「神に受け入れられる信仰241」7月20日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「思いやり心の信仰」です。

日本にフランシスコ・ザビエルを通して福音が伝えられたとき、「神は愛なり」の愛を現す良き言葉が、日本にありませんでした。当時の愛は、男女間のしかも、あまり良いイメージの愛ではありませんでした。そこで愛を御大切と訳したそうです。神の愛には、すべての人々を思いやる心が示されています。イエスは多くの人々を癒されました。その時、「あなたの信仰があなたを救ったのです。すっかり治って達者でいなさい、二度と罪を犯すことがないように。」思いやりの言葉をかけられました。十字架にかかる前には、母マリヤに対して、「女の方。そこにあなたの息子がいます。」と言われ、弟子ヨハネには「そこにあなたの母がいます。」と言われました。自らの亡き後、母マリヤを弟子ヨハネに、託す思いやりを見せられました。

神が思いやるお方であるように、私たちも隣人に対して、思いやる心で、互いに大切に仕え合う信仰者になりたいものです。


「神に受け入れられる信仰240」7月19日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「時にかなった信仰」です。

ダビデ王の勇士たちに関する記述です。

日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営になった。」Ⅰ歴代誌12:22

イスラエルの12部族の中から、ダビデを助ける勇士たちが続々と集まりました。その中で、「イッサカル部族から、時を悟り(時勢に通じ=口語訳)、イスラエルが何を成すべきかを知っている彼らのかしら二百人。彼らの同胞はみな、彼らの命令に従った。」Ⅰ歴代誌12:32 中国の「三国志」には、「天の時、地の利、人の和」が勝利の大条件であることが何度も示されいます。聖書の伝道の書にも、次にような有名な言葉が記されています。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬるのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。・・・神のなさることは、全て時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」伝道の書3:1ー11

新約聖書で、時に関して二つの言葉が、主に記されています。一つはカイロス(神の時、好機、チャンス)です。もう一つはクロノス(一般の時、過ぎ行く時、消費の時)です。人生には様々の時があります。チャンスの時、ピンチの時、すべてがうまくゆく時、何をしても思うようにならない時。しかし、神が介入されるときはすべて、カイロスの時です。

”神は言われます。「わたしは、恵みの時(カイロス)にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”Ⅱコリント6:2

時を悟り、すべての時に神を待ち望み、神の介入を歓迎する人は、幸いです。あなたがその人であることを、お祈りしています。

 


「神に受け入れられる信仰239」7月17日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「赦しの信仰です」

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」ルカ6:37 ここでイエスは三度「そうすれば」と語られました。人間関係の中でおこる問題に対して、人をさばいてはいけません。人を罪に定めてはいけません。赦しなさい。そうすれば赦されると言われました。この後で、イエスはたとえを語られました。

「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁のは気が付かないのですか。自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」ルカ6:41-42 ちりは非常に小さいものです。それに反して梁はとても大きなものです。

私たち人間は、神の前に梁のように大きな罪を赦されました。しかし、人のちりのような小さな罪や問題を赦さないのです。人は自分の力で赦すことができません。十字架ですべての罪を赦されたので、赦すことができます。

「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。」ヘブル9:22

赦しには、キリストのいのちの代価が払われているのです。ゆえに、解放と自由があり、人を赦すとき、その人も赦され、神から与えられる解放と真の自由に満たされるのです。

赦しの信仰者にならせていただきましょう。


「神に受け入れられる信仰238」7月16日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは「献げる信仰」です。

献げる行為は、神への礼拝です。聖書で人間とはアン(上)スローポス(生きもの)という言葉が使われていますが、「上(神・主)を見上げる生きものの意味です。人間以外の生き物はすべてスローポスです。では、神に何をささげるのでしょうか。

第一にその人自身を献げるのが礼拝です。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたのからだ(霊と心とからだ)を、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1

次には、持てるものを、ささげるのです。

人間の持つ、すべてのものは、神から与えられています。いのちも、健康も、能力も、賜物も、時間も、美しい自然界も、人間が生み出したのではなく、神が人間に備えてくださったのです。エデンの園ですべての必要が与えられていました。アダムとエバのすべきことは、賢く管理することでした。同じように、神は人のすべての必要をご存じです。その中から、喜びと自発の心で、神と人々にささげることを、神は望み喜ばれます。

私たちの、もてるものは、何でしょうか。聖書の中には多くの献げることが取り上げられています。そのなかで、イエスが十字架につく葬りの用意をしたと、イエスに言わせた一人の女性のささげものがあります。彼女は、高価なナルドの香油をすべてイエスに注ぎました。イエスは言われました。「世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のしたことも語られて、この人の記念となるでしょう。」マルコ14:3-9(参照)

私たちにできる献げものを、喜びと感謝の心でささげましょう。


「神に受け入れられる信仰237」7月15日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。』ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「あわれみ深い信仰」です。

「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」マタイ5:7

有名な山上の垂訓における八福の五番目の幸いです。

人は蒔いたものを刈り取ります。イエスはあわれみを蒔く者はあわれみを受けると言われました。コルネリオという名のローマ軍の百人隊長は神を恐れ祈り深く、人々には施しを成し、あわれみ深い信仰者でした。神はコルネリオの祈りと施しを覚え、彼の家族、親族、友人たちのすべてを救い、聖霊のバプテスマの恵みを注がれました。(使徒10章参照)

コルネリオは異邦人伝道の初穂として、神に大きく用いられ祝されたのです。

コルネリオの名前の意味は「敬虔な」です。神に対して敬虔な信仰と、人々へのあわれみ深い者は幸いです。神からのあわれみと恵みを受けるからです。「あわれみ深い信仰者」にならせていただきましょう。


「神に受け入れられる信仰236」7月14日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「慎みの信仰」です。

「神が私たちに与えてくださったもの(霊)は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」Ⅱテモテ1:7

このみ言葉は、使徒パウロが弟子のテモテに送ったことばです。神の霊に満たされるよう励ましを与えたのです。

では、聖霊とはどのような霊であり思いでしょうか。それは力と愛と慎みの霊です。

今日、取り上げた「慎み」は別訳の聖書によれば、「健全な精神の霊と訳されています。」

信仰は、時として、人間の思いや理解をはるかに超えた場合があります。しかし超常識であっても、非常識ではありません。本物の救いをもたらす宗教か否かは、健全であるかどうかです。聖書の中には、沢山の奇跡やしるしがあります。神であるからこそ、人間の理解を越えた御業がなされるのです。教会に行くと「主の祈り」と「使徒信条」が唱えられています。使徒信条は、聖書の根本真理を記したものですが、あるものは超常識です。しかし聖霊が力と愛と慎みの啓示により、健全に理解させてくださいます。

「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」ヘブル11:1 

あなたの上に聖霊を通して「慎みの信仰」が与えられますことを、主の御名により祝福してお祈りいたします。


「神に受け入れられる信仰235」7月13日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「安息信仰です」

「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」ヘブル4:10-11 

神は天地創造の時、六日目に人を神の形に似せて造られ、七日目にすべてのわざを終えて休まれました。人間にとっての第一日目は、安息日でした。即ち人の成すべき第一のことは、神の安息にはいることです。この世は戦いであり、多くの悩みや問題、重荷があります。徳川家康は、「人生とは重き荷を背負い、遠き道を行くがごとし。」と有名な言葉を残しています。

イエスは言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」マタイ11:28-30

二つの安息があります。第一はすべての重荷や悩み、罪、問題をイエスに取り除いていただくことです。第二はイエスと共に歩み、イエスと共に生活することです。

イエスは、十字架ですべての重荷を身代わりに受けられ、死んで後、三日目によみがえりあなたを新しい人に造り変えて、神の安息の民としてくださいます、主の祝福をお祈りしています。


「神に受け入れられる信仰234」7月12日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「戦う信仰です。」

使徒パウロが、愛する弟子のテモテに最期に贈った言葉です。

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」Ⅰテモテ6:12

パウロは若く純真な弟子テモテを、強く立派な福音の兵士として育て上げました。

この世においては、様々の戦いがあります。サタンや悪しき霊との霊的戦い、自らの罪や肉の性質との戦い、人生におけるさまざまの問題などです。パウロは、殉教を覚悟しテモテに再度、証しました。

「あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去るべき時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」Ⅱテモテ4:5-8  

この世における人生は数十年です。長くても100年です。しかし、永遠の世界が待っているのです。この世の戦いをキリストによって圧倒的な勝利者になりましょう。この世の戦いは束の間であり、神による安息は永遠だからです。


「神に受け入れられる信仰233」7月10日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「笑いの信仰です」

信仰の父と呼ばれたアブラハムの妻の名はサライでしたが、サラ(笑う)と呼ばれるようになりました。彼女は、アブラハムと共に約束の子供が与えられると75才の時に神から召しと約束の言葉をいただきました。しかし、サラは子供が生まれない不妊の女性でした。

ある日、三人の人が来てアブラハムに、その一人が言いました。「あなたの妻サラは、来年の今ごろ、男の子を産むでしょう。」90才となったサラは、奥の部屋でこれを聞き、笑って言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」主が語られました。「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、サラには男の子ができている。」サラは恐ろしくなり「私は笑いませんでした。」と打ち消しましたが、主は「いや、確かにあなたは笑った。」創世記18:10ー15(抜粋)

サラに約束された時期に、男の子が生まれました。アブラハムは、その子をイサク(笑い)と名付けました。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」創世記21:1-6(抜粋)

神は信じる者に、約束されたことを必ず実現します。その時本当の笑いが与えられるのです。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いなことでしょう。」ルカ1:45 

あなたの上に神の約束が、与えられ、実現されることをお祈りいたします。

 


「神に受け入れられる信仰232」7月9日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「熱い信仰です」

「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」ローマ12:11-12

神の働きにおいて、実を結ぶ三つの要素があります。上記の、み言葉がそれです。

第一に望み(ビジョン)、第二に情熱(パッション)、第三に行動(アクション)です。

熱心、情熱がなければ事は動きません。エネルギーがなければ車が走らないとのと同様です。

望み(ビジョン)をいだき、祈り仕えることが、行動(アクション)です。

ペテロは、単純で知識的にも博学ではありませんでしたが、ビジョンとパッションとアクションの器でした。彼はだれよりも熱く情熱の人でした。神様は、熱心を喜ばれます。

なぜならば、神ご自身も熱心の神だからです。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、とこしえまで、万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」イザヤ9:7 再臨の主に対する預言です。

熱心は、神への愛とみ言葉、聖霊の助けにより、与えられ続けます。熱心な信仰者になりましょう。



「神に受け入れられる信仰231」7月8日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「聖(清い)められた信仰」です。

神の本質は愛であり義であり聖です。

「すべての人との平和を追い求め、また聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることはできません。」ヘブル12:14

では神の前に清いとは、どのような状態、どのような人を言うのでしょうか。イエスは、「心の清い人は、幸いである。その人は神を見るであろう。」と山上の垂訓で語られました。心が清いの意味は、一つ心という意味です。すなわち神に心が向き、神に結ばれていることです。

人が何か善い行いをしたから、また逆に悪いことをしないから清いのではありません。

それらは、部分的であり、絶対的清さではありません。

「義人はいない一人もいない。」ローマ3:10

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3:23-24

「聖(清)められた信仰者」は、神の尊い働きや必要に役立ち用いられると、パウロは語っています。

「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は、卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」Ⅱテモテ3:20-21 神の前に「聖められた信仰」をもって神と人々に仕える者になりたいものです。


「神に受け入れられる信仰230」7月7日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「勝利の信仰です」

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:37

この世における人生には、悩みがあります。心の悩み、健康問題、経済や仕事、人間関係です。しかも究極の死は、だれも避けることはできません。イエス・キリストのお言葉です。

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」ヨハネ16:33(口語訳聖書)

全てにおいての勝利者なるお方とともに歩むことが、勝利の秘訣です。

「・・神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」ローマ8:31

霊と心と体、この世と永遠の世、キリストはあらゆることの勝利者です。キリストは十字架で、すべての罪と病と重荷を身に受け、死んで後、罪と死とサタンを打ち砕かれたお方です。

このお方と共に歩み、このお方の考え方に生きる人生は、たとえ問題が来ても、圧倒的な勝利者となるのです。人生における金メダルを与えてくださるのです。主の豊かな祝福をお祈り申し上げます。


神に受け入れられる信仰229」7月6日

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」ヘブル11:6

本日の「神に受け入れられる信仰」とは、「癒しの信仰」です。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」Ⅲヨハネの手紙2

天の父なる神様は、良いお父さんです。親が子供の幸い、健康をいつも望むように、いやそれ以上に神は私たちの幸いと健康を願っておられます。健康には三つの領域があります。

①霊の健康 ②心(たましい)の健康 ③体の健康です。

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、あなたがたの霊、たましい、体が完全に守られますように。」Ⅰテサロニケ5:23

人生において、時として病に襲われるときがあります。神はまず、病にならないように健康を守られますが、病になった時には癒しをなさる良い神様です。イエス・キリストは私たちのすべての罪と病のために十字架で、贖い(救い)を成就されました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イザヤ53:4-5

イザヤによる十字架預言のみ言葉です。

神のお名前はヤーウェ(主)ラファー(癒し主)です。「・・・主の命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。私は主、あなたをいやす者である。」出エジプト15:26

あなたの上に主の幸いと守り、全き健康と癒しがもたらされますことお祈りしています。